啓発舎

マジすか? マジすよ

雨上がりの風が部屋の中に流れ込む。
今日はバナナと水、の一日。


N響。テレビだが。
今夜わかったこと。


息子ヤルヴィはモーツァルトを仮構する。
一回、なんだかおれもよくわからないが、彼なりのモーツァルトという抽象的な概念を措定し、むりやりそれに演奏を当てはめる。
それに、ポチのようなお抱えピアニストが、のる。
おやじ二人で勝手にでっちあげたおよそモーツァルトとは似て非なる末梢神経のみを刺激する20分。


客は、よく耐えた。


ということでは、みなさんはおそらく無く、至福の時を過ごしたのだろう、たぶん。


おれは、どうしてもこの人はダメだ。
先週のN響アワーでは、団員がインタヴューで口々に息子ヤルヴィを絶賛していた。
演奏者が褒めるのだから彼らから自発性は引き出しているはずだ、たぶん。


ほんとか。


他人がどう感じようが、それはその人の勝手だ。
私はおれさまだから自分の感性を疑うことはしない。


だが、演奏者は、別だ。
奏者が楽しんでいる、となると、おいらも動揺を隠せない。


愉悦がありましたか、団員のみなさん。
私は、みなさんの自発性を、モーツァルトを、感得できませんでした。


まあいい、おれはおれだ。