啓発舎

マジすか? マジすよ

がらんどう、か、自足しているか。


前から、自分のなかでいじいじと突つきまわしていることについて、書く。


世間とのやりとり、というより、一方的に言ってよこすよこすのを黙過することが、それなりにある。3より多い複数名。
仕事がらみであったり、過去のしがらみであったり。


おれみたいに、深海の底でうとうとしていると、そのやりとりは無論どうでもいいのだが、さすがに、すこし気づくことがある。


この男は、一体なんのために、こうしてぴーちくぱーちくあーだこーだやっているのか。


結論に飛ぶ。
自分が、がらんどうだからだ。
自分のなかみがすかすかだから、「がらんどう」と疎通できない、即ち、自分とやりとりできないから、いきおい、他にちょっかいだす、すがる、ということをしていないと、存在が維持できない。


つきあいの多い奴、社交家、といわれている奴は、ほとんど、いや、全員これだ。

笑って、いや、嗤って、傍観していれば、いいのだね。


おれが、おれに構うな、というのは、折角自分とうまくやっているのを遮断しないでくれよ、ということです。


女は、もともと、他人との関係性だけで生きる生物だから、それでよい。
男で、ある程度年のいったやつがこれだと、見世物だぞ。
定年退職おやじの8割ぐらいはこれだ。
会社だのなんだののなかの人間関係だけで日々を送るくせがついているから、自分ひとりでいることに耐えられない。
それをまた、日経だのなんだのが、地域社会とどうする女房となんだかんだ、趣味の仲間とちんたらまんたら、と煽るんだね。


嗤えるから、どんどんやってくれ。


深めようと思えばいくらでも深くできるテーマだが、なんか、書いていて、例によってどうでもよくなった。

肝心なのは、そのあと、では、自分と、というくだりなのだが。

それは、このブログのルールでは、寸止めです。