静かになったということ
◆外界
自分、どこまでを自分ととらえるか、ということについては、別途、で、自分、をとりまく環境は、だいぶ静かになった。
◆内側
記憶、というか、想念、というか、自分の内側から湧き上がるあぶく。
外側が静かになると、これが、ずいぶん、にぎやかに聴こえる。
9時5時稼業のころは、外側が、なんというか、けたたましかったから、むしろ、自分の裡なる声に耳を澄ます、ということを、結構意識してやっていた。
足を洗ってから、です、少しずつ、この、あぶくが、ちーちーぱっぱ、とまではいかないが、おしゃべりになってきたのは。
観察すると、記憶なりなんなりの対象となる事象と、その評価が一体となってでてくるのに気づく。
たとえば、9時5時時代の、まわりとのやりとり。
それ自体はどうでもいい。やり過ごせばよい。
が。
そこに、その事象にまつわる、感情とか、あ、いけね、とかの事象評価とかが、同時にうかぶ。
いまの自分の物差しだと、全然OKじゃん、がほとんどなので、ここに、微妙なゆれ、みたいなことがおきる。
あぶくは、当時の物差しにもとづく環状なり評価なりを道連れにする。
これを、いまの、健全な判断機軸で、笑う、あるいは、嗤う、あるいは、やり過ごす、などの、微細ではあるが、作業が、自分の裡で行われる。
これが、にぎやかの原因だ、察するに。
あ、9時5時のあぶくだ、と察知した時点で、これに付随する感情とか評価とかを事前にブロックする、事象のみを、なんだろう、写真みたいに額縁にいれて、ばーか、とやりすごす、というのが、感情、評価に触らない、いちばんすっきりしたやりかただと思う。
で、そいういことを現にやっている。
というように、おれさまの日常は、いまや、外界とのやりとりではなく、自分の内側のもぐらたたき、とまではいわないが、内側を御す、というか、静かにする、というか、そういうことが主戦場、という言葉は、ちょっと強いか、日常、というか、まあそううかんじ。
で、ふわふわしてるわけよ。
ここ数年、そういう雑音あぶくを生産するような日常は、ほぼないので、そうだな、地震の年以前がほとんどです。
別にゼロクリアする必要はない、事象は別にかまわない。
ということで、1年締めくくる。