啓発舎

マジすか? マジすよ

マイスターエックハルトの説教かなにかで、神様に近づくいちばんいい方法は、自分をがらんどうにする、とか、自分のなかのガラクタをなんとかする、ことだ、というようなことを読んだ。
たくさん字は書いてあったが、当方が全体から受けた印象をまとめると、いま書いたとおり。


自分の中に空間ができると、神様が勝手に入ってい来る、浸透してくる、というような理屈。
これって禅だよね、とか言い出すとややこしい話になる。

あくまでドイツ神秘主義の祖、キリスト者としての発言と、聞いておく。
そもそも当方が勝手に誤解している可能性も高い。

以上、前置き終了。

きのうの昼、久しぶりに北の丸を自転車でうろうろしていたら、神様、かどうか知らないが、入ってきた。
樹々やら、葉っぱがキラキラ光るのやら、水面やら、空やら雲やら、が。
決して、気分は清らかではなかった。
前日一匹オオカミ同好会の会合でいつもどおり辟易して、といっても、そのうんざり感は、不快な気分ではなく、どちらかというと自分が他人事みたいで面白かったりする、野次馬根性なのであるが、いずれにしても聖人君子の状態、であったためしはおれは今までやってきたなかでは無論ないが、要するに、いつもどおり、ったく、という、自分としては日常感覚でいた。
仏頂面のおやじ、の外観だったはずだ。

美しい景色を美しいと認識した時点で、それは客体だ。
そうではなく、それが毛穴から自分に浸透するというか、一体化するという表現はちょっと避けたいが、でも近い、そういう状態になることがたまにある。
10年以上前から。
予測はつかない。
きのうみたいな、ごく普通にむすっとしているときに、よくある。

神様が私に降臨あそばされたもうたかどうか、そんなことは知らない。
髭はやした老人も羽の生えた赤ん坊もそこらに漂ってはいない。


エックハルトの書いたものがときどき自分に響くのは、こういう体感を、よく文字にするのだね。


自分をがらんどうにする、というのは、人為じゃだめだ。
自分の中のがらくたを捨てる、という操作が介在して、その操作自体が、がらんどう化を妨げる。


彼は、お祈りだかなんだか知らないが、少なくとも、おれは枯野書いたもののなかで、なんか具体的な記述を読んだ覚えはないが、間違いなく、なんかやってました。
そうじゃないとあれは書けない。
自分をむなしくすると神、でも、おおいなるもの、でもブラーフマンでも、なんでもいいが、が自分を満たす、という体感には、絶対、行、のようなものが前提にある。

だいたい神様が自分に侵入してきたら、自分が神様になっちまうじゃねえか。
エックハルトは紛れもなくそれを言っていて、寿命でみまかったが危ないところだった。


神を措定する教義に生きたから、神なんていうありもしないドグマにとらわれるので、新プラトンみたいにおおいなる一、ぐらいにぼやかしてほおっておくのが一番賢い。


まあ、そんなこんなで、気分は、お迎えが来るまでひまつぶしです。