N響第1893回 定期公演 Bプログラム
シューベルト/交響曲 第3番 ニ長調 D.200
R.シュトラウス/ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調
ベートーヴェン/「プロメテウスの創造物」序曲
ハイドン/交響曲 第102番 変ロ長調 Hob.I‒102指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ホルン:ラデク・バボラーク
その日に感想を書くのが最近、きつい、ビールワインのせいだけではなく。
箇条書き。あとは体力の続く限り。
◆1st vn
◆ホルン独奏
◆シューベルト2楽章
◆ハイドン終楽章
◆パーヴォについて
今夜は、楽しんだ。
シューベルトの出だしから、今夜は、弦の響きが違う、と感じた。
パーヴォの振るN響としては、という前提もあるが。
しばらくして、ファーストのせいだ、とわかった。
やわらかい。しっとり。
きのうだかおとといだかこのブログに登場願ったばかりで残像があるのでひっぱるが、高野切のような、流れ。
なんか臆面もない表現だ、ほんとにおれが書いた文章か。
というぐらい、そんな形容をしてしまうぐらい、動かされた。
随所で。
たとえばシューベルトの二楽章。
メンツが一軍だったからか、前の2プルトゴージャスだったし。
あるいは、マロがやっと求心力を発揮したか。
まさか、パーヴォのトレーニングの成果か。
実はいつもとかわらず、おれの体調、気分のせいか。
など、原因を探すが、どれも決定打を欠く。
おれの主観にすぎない、というのが一番すわりがいいのは自分でもわかる。
エッシェンバッハのブラームスのころなんか、やめちまえ、と思ったもんな。
てんでに好き勝手に弾くから音がセクションとあいてもまとまらないし、ましてや他の声部となどとんでもない。
エッシェンバッハがあまりにひどかったので、坊主にくけりゃ袈裟まで憎くなった、とまで、あれは、言い切れないと思う。
ついでに言うと、エッシェンバッハのブラームスは音楽の友の演奏会評とかでは絶賛でした。
戻す。
音が美しいと、それだけで楽しい。
ばぼらーくの悠揚迫らざる響き。
ホルンがよく鳴った時の、時空が輝くようなあの感覚を、いくたびも味あわせていただきました。
おれはチェロなのでチェロはいつもほじくり聞き、そんな言葉あるか、するのだが、今日は、セクション全体として丸く暖かい音をだしていた。藤森軍団はたまにギスギスすることがあるので、今夜のトップのぼくちゃんのお手柄、というべきか。これは、しばらく要観察。
ハイドンは、熱演だった。
パーヴォの音楽性は、ハイドンと相性がいいのではないか。今夜の一曲だけで即断はできないが。
今夜の曲は聞くのははじめてだが、終楽章なんか、超絶難曲ではないか、合わせるのに。
エステルハージ侯の私設オケは、腕っこきぞろいだったのか。
ここでも1stVnの細かなパッセージが光った。
あと、M木の、シューベルト三楽章トリオのよたれ吹きは笑いを誘った。箸休めとしてよかったですよ。本心なり。
パーヴォは、いつものとおり一拍目をやたらにアクセントつけて弾かせるので、音の横の流れが阻害されるのは、ああ「川の流れのように」音に浸っていたいおれさまと相性が悪いのは、これはいたしかたない。
ハイドンは、きびきびが似合うので、パーヴォの解釈に違和感がない、ということだったか、と、今気がついた、今夜、曲としてはハイドンが一等賞、と思ったのは。
あと、ビールが600円に値上がりしました。
そんなとこ。
実は帰り道、触発されてあれこれ思ったことがある。
ホールできいている刹那、瞬間、瞬間の気持ちのゆらぎと、終わった直後の時空把握、今こうして書いているとき、翌日以降に残る残像。
それぞれが全然違う五感の体験です。
音に接するということと五感のセンサーである自分のせめぎあい、時間の推移とのやりとり、というのは、およそヒト、トホホな生き物、としてやっていかざるをえない自分に対する、その滑稽と悲惨に対するささやかな対価、と理解してよいか。
ささやかどころか、こんな豊穣なうめわせをいただけるのであれば、明日も背中丸めてやっていこう、という気にもなろうってもんだ。