啓発舎

マジすか? マジすよ

N響エッシェンバッハのブラームス追体験

N響。テレビ。
エッシェンバッハのブラ4ブラ1追体験

日曜日の晩だし、あまり小言をいう気分ではない。
今夜の発見は、実際にホールに居合わせるのとテレビでは、もちろん音そのものが違うのは言うまでもないが、体験の質が全然違う。

ライヴがよくてテレビは剥製、とか、そういう月並みなことを言うつもりはない、優劣ではない。


会場は公共の場だ。
ビール片手にカウチ、というわけにはいかない。
左どなりはいつものじいさんが時々なぜか時計をみる、右は開演20分後からこれもお約束の居眠り、天井を見上げると照明が、など、五感は、広い空間での生命の維持、という動物としての注意を四方に払っている、はずだ。
要すれば、意識の逃げ場がある。
休憩にはロビーで一杯もやれる。あたしゃこれが好きで好きで、半分ぐらいはこれ目当てで通っている。ハハ。
その点テレビは、見ている限り演奏に集中せざるをえない。
特に今回はアップの映像が多かった、キュッヒル氏だとか指揮者とか、ヴィオラの川本さんも結構写っていた、熱血だったからな、とか、演奏に関係する映像のみ流す。
当たり前で、舟をこいでいる客のおやじを抜くわけにはいかない。


で、御覧になった方、どうでした、と、むしろ、テレビだけ見た人にこちらから感想を聞きたいぐらいだ。


おれは、キュッヒル氏が、あんなにおっかない顔で弾きまくるのは、びっくりした。
指揮者が、ぶっ飛んでいるのは、これは、背中を見ていてなんとなく気配で察したが、テレビでみると、視線は、完全に、いってました。

という映像と、でてくる音を虚心に体験すると。

1時間半難詰され続けたような、そんな感じでしょうか、ひょっとして。

おれは途中でおかわり作ったり、ガス抜きしました。さすがに。


演奏前のインタヴューで、指揮者は、ブラ4の終楽章は悲劇的なだけ、それを畳みかける、トロンボーンのコラールだけ救い、みたいなことを言っていた。
確かに演奏はそうだった、救いがなかった。


だがな。
ここから長くなるかもしれない。

ブラ4終楽章は変奏曲です。
主題と変奏。
パッサカリアとか、小難しい解説が多いが、弾くほうからすると一緒。
弦楽器やる奴は、みんな慣れてます、練習曲でも実演でも。
エロイカ終楽章とかと同じ。


どういうことかというと、楽しいのです。弾いていて。
腕の立つ作曲家の手にかかると、主題の音列とか和声進行が、手を変え品を変え楽器をかえ、様々な意匠で展開し、何度練習で弾いた箇所でも、次にこうなってああなって、と景色がかわるのを体験するのは、わくわくします。

ブラ4の終楽章なんて、練習でも、楽しいです。
フルートの例のソロを背中で聞いたり、ハンガリー舞曲っぽくなったり、いつものタンゴ風リズムがでてきたり、ブラームスの手癖を存分に楽しめます。


ブラームスは、ちゃんと、遊んでいる。
演奏しているとそれがわかる。


トロンボーンのコラールは、息抜きですよ。
例えば、ブラ3第一楽章の展開部でヴィオラとチェロが先陣を切って弦がみんなしてひとしきり暴れまくったあと、ホルンが、静かな楽想でコラールします。
おれのイメージはそれとまったく一緒。


ブラームスのパレットには、あらゆる色の音がある。

それを、悲劇的、の一語で、灰褐色一色で塗りつぶしたのが今夜の演奏だ。


これを指揮者のキャラと結びつけるのは短絡だ、控えたい。


だが、噂によると、この人、首席客演指揮者になるとかなんとかいうじゃないですか。
パーヴォとこの人で定期演奏会の過半をやられた日にゃ、あたしゃ、会員降りることを本気で考えるよ。


とは言ったものの、こういう、なんというか、極端な演奏は、触発されていいたいことが次々でてくるので、しかもテレビで再現までしていただいて、一粒で二度おいしい、と言えないこともない。


一日五回は考えをかえる。
これぞお気楽に生きる途。