啓発舎

マジすか? マジすよ

東御苑。
なんとかヨシノ。
早咲きの桜のようだ。遠目で白、近寄っても白。





22日に書いた「膝かっくん」の続き。
なんで、当方がこれに反応したか。
検定だかなんだかなんて、どうでもいいのだが、要は、お仕着せ詰め込みで自分で考えるトレーニングができないまま大学に入ると、大学は「学問」で「自分で考える」ことが要求されるので、対応できず挫折を味わう、という論旨について、思わず、逆だろうと突っ込む18歳のおいらがいたのだよ。
説明する。
おれが大学に入ってまず感じた違和感は、こいつら全然自分で考えてないじゃねえか」ということに尽きた。
今はどうかしらないが、当時の仕組みは、はいって二年間は専門に行く前に教養を身に着けるんですよ、ということで、ゼミだの読書会だのの小集団で「学問しようよ」という機会が結構あった。
参加した。
つむじ曲がりは生まれつきだから、かったるくなると、途中でかましを入れたりしていたのだが、そうすると、君何言ってんですかの表情になって誰それはああ言ったこう言った、って言ってくるんですよ。
なんとか新聞地方欄で知事から大学受かった感謝状を受け取る自分の写真いりの記事をお守りのように肌身離さず携帯している県立高校の優等生が。
いや、さすがにそれは図式的で、もちろんそうでもない奴もいました。
ただ、主流は、「誰それが」だった。
自分で考えず、マルクスとかフロイトとか「誰それ」に考えてもらうわけよ。もちろん優等生だから引用に誤りはなかったのだろうけど、文脈を含めて。
おれの育ちはそうではなかった。
中学高校のころは、突飛なこと、はちゃめちゃなことを言ったりしたりしないと、まともに相手にしてもらえなかった。
教師がなんか言ったら必ず誰かがまぜっかえす。
気が利いているかだけが判断の基準だ。
これは結構技術が要って、反論するにしても、あざとかったりピントをはずしたりすると、受けない。
外す奴(だいたい決まっていた)がなんかかますと、しらけ鳥という物体が教室を舞う。ちゃんと紙ヒコーキを用意している生徒がいて、それを飛ばすんですよ。
 しらけることによって受ける、というこれは高等技術で、これができる生徒は極く限られていた。
 授業もそういう感じだが、これはまだ気を抜くことができる時間で、むしろ、それ以外、生徒どうしの状況が主戦場でありました。
これは結構きつかったよ。
で、中高6年間で得たスキルは「すべてを疑う」ということだった。
ただし、疑う以上、自分で考えないといけないんですよ。
それがかっこいいということですから、みんな争って個性を出しまくり、自由というか放縦というか、解放区、の様ではあるけれど、所詮は、教員はじめ物わかりの良い大人たちに守られた時空間があったのですね。

なんかやってしかられたのは、文化祭の前夜、音楽室のグランドピアノの上で寝て、どういうルートでか娘からそれを聞きつけた世田谷の伯父にたいがいにしなさいと言われたぐらいだ。
シュラフをもっていなかったので、ドラキュラの衣装みたいな、黒赤のベルヴェットのピアノカバーが寝心地よさそうだ、よし、と「自分で考えた」のであった。ごつごつして全然寝心地よくなかったのですぐ降りましたよ。


で、大学はいったら、「だって誰それさんがいいました」でしょう。
実定法学とかはそれでいいんですよ。誰それさんの判決とかがすべてですから。
法律が、なんで守られないといけないか、というと、それが法律だから、ということに尽きるわけですから。

そうじゃなくて、教養のころの、みんなで学問しようよ、でまず初めに受けた洗礼が、誰それさんだったもんですから。

たとえば「人間万事エロスとタナトスって、だれがそんなこと決めたんだ。人間万事色と欲に決まってるだろうが」というのは通じなかったんですよ、たとえば、今思いつた例だけど。週刊新潮は旗色悪いよ。



どうも、人文系の「学問」についてかみつきたくなるのは、当時のそういう体験があるんですかねえ。


で、その後、結局、ほぼ中学高校のつきあいに終始して、かすかに音楽サークルのやりとりもあったか、これはこれでブルジョア趣味で、と言い出すときりがない、いずれそのうち、で、4年で通り過ぎたのでした。

というようなことをつい思い出しましてね。
昔話じゃ。