外からのゴミを、それが情報だろうと、ヒトだろうと、排除する。
それはわかった。散々聞いた、自分から。
次、自分のなかにすでにあるゴミはどうする。
記憶、とあれこれやっていると、どしても、これがでてくる。
そもそも、なにがゴミでないがゴミじゃないか。
分別をどうするか。
その基軸は。
これは、急ぐことない。
記憶のゴミ、というのは、たとえば、おれの身過ぎ世過ぎ時代のあれこれだ。
いまとなっては、全部ゴミ。
おれの日常にまったく、何の関わりもない、かすりもしない。
ある日、職場のバカとなんかやりとりしたことが、突然浮かんだとする。
これが、いまもそういう日常だったとしたら、あーいえばこーいってそれでバカだからこーしてくるだろうから、こうけたぐりして。
とか、シミュレーションもするし、次回他のバカと同様のことがあったら、これが、すぐ同じシチュエーションが出来するんですよ、ヒト、場所をかえて、これを役立てることもできる。
いま、それ、全然ないからね。
そうすると、純粋に、その記憶のクズ加減が、別にいちいちそんなもの評価する気もないが、とっさに、あからさまになっちゃうわけです。
これ、どうするか、ね。
ま、ほっとくんでしょうね。
はい、この件はここまで。これが限度。
で、本題は。
体内のゴミは、こうしてやり過ごすと。
また、記憶にもどる。
ゴミじゃない記憶は。
ということ、これがこのところ、結構新鮮なんですの。
記憶、といっても、自分のなかで勝手に再構成されてしまうところがあるから、自分のなかの、なんだろう、五感のサンプルみたいなもの、といってもよい、かもしれない。
それで、あのときの風の感触、とか、木立のかんじ、とか、面影とか、音とか。
主に、そういうことどもです。
これから、無限に時間があるから。
お迎えがきたら、そのあと意識がないのだから、いまの意識で観ずる時間は、無限といってよい、時間は無限にあるのだから、無限に、このことととつきあいできる。
かそけき、というレベルで、これらは、あるので、かそけき、これは記憶といっても、現にいまここにある事象といっても、ほとんど差はないが、かそけき五感のゆらぎを遊ぶには、それを感得して、時間軸に置いて、またどうこうする、という作業が行われる。
いま、割とそんなかんじ。
ご退屈様。