いつもの日常回復。
長い文章を、という気分。
静謐とはこういうことだった、というのは、いうも新たな体感。
記憶の引き出しからひっぱりだせない。
人間は出来の悪い機械だ。
記憶は、学習第一、こんどこういうことあったらこの経験を活かして対応しなさいよ、のためにあるから、どしても、どぎついこと、だいたいがヒトヒトだ、が、積みあがる。
で、脈絡なくフラッシュバックする。
9時5時時代のなんか、どうでもいいので、まとめて業務用のゴミ袋にいれて処分するのが合理的。
もう金輪際ヒトヒトの中でうごめくことはないのだから。
まあ、かすれてはきたから、やり過ごしていますが、ね。
そこへいくと、午後の緑の間をわたる空気の流れ、というのは、そのときその場で体感するもので、たとえば、夜中に突然肌感覚が甦る、ことは、ない、とは言い切れないが、きわめて稀だ、すくなくとも、その種のフラッシュバックをうかべることはできない。
いま、いつものように、窓、といっても床から天井までだが、際で、ぼーっと、してはいないか、これ書いてるんだから、まあその、書いている、この時間の流れも、あとから反芻するのは難しい。
というわけで、この10年、私の記憶は、ほとんど透き通っている。
濁ったあれこれは、極端に少ないから。
環境が幸いしているところもあるし、おれが注意深く、まぬけヒトヒトあれやらこれやらをよけて歩いているから、もある。
この一週間、直接ヒトヒトに巻き込まれたわけではないが、一歩外にでると、半蔵門はこちらのタテカンとヒトのうず。
いや、別にいいんであ、直接そいつらと交渉しているわけではないから。
記憶に変な痕跡のこすほどではない、と思うから。
だが、静寂がやぶれたのは事実だし、そのことに鈍感になったのも事実だ。
毎日東御苑に通って、その喧騒を楽しんだりもした。景色だから、全部。
で、今、静寂がある。
静かである、というのはこういうことであったのか。
時空間、というのは、こういう四囲であったのか。
今年は、この先、あまりヒトヒトはない、銭金関連でも。
これから梅雨にかけて、ひいやりした大気が存分に味わえる。
夏をやり過ごせば、時空が最も輝く季節がやってくる。
というわけで、この流れがなるべく途切れることないようやっていく、ということなのだなあ、としみじみ思うのであるよ。