啓発舎

マジすか? マジすよ

この季節毎年恒例。

新宿通りでこの世の週末、じゃない終末の予感をおぼえる。

 

暑さが、なんというか、度を越している。

英国大使館の坂の下と頂上で体感3度は違うね。

 

SNS、というのは、おれはやらないのでよくわからないのだが、なんだかたいへんなことになっているらしい。

 

こういうことがるたびに、スマホだのSNSだのが諸悪の根源で、どうのこうの、と言い出すが、おれは、もちろん、どうでもいい、と思う。

 

踊る阿呆にみる阿呆だろ。

出すほうも受けるほうも両方バカ、というだけのことではないのかね。

 

こう熱いと、暑くなくても似たようなもんだが、あーでもないこーでもないの思考がふっとぶ。

 

で、ひさしぶりに、

 

おれさまにさざ波をおこすもの。

 

◆さっきいったスマホだのSNSだの。

 これは、結構うまく排除できている。

 なんか、ピーピー言ってるらしいという気配ははいるが、だれがどうで、というのは、知らんよ。

◆ヒト

 ヒトは、気晴らしで昼めし食いに行くときの応対ぐらいなので、店をえらべばだいたいOK。

 中国人がやってる中華にはいかない、とか。

 はじめての着信には絶対でない、とか。

 

で、残るは自分なので、不断「に湧き上がる想念は、これはしかたありません。

だが、外界が静かだと、これが結構にぎやかに感じられる。

 

あのときあーだったこーだった、ということより、静止画にまつわる五感の記憶のような。

 

瞬時。

 

ストーリーのある記憶は、御せる。

ばーか、とやり過ごせばよい。

昔の9時5時にまつわることなんかは、全部それ。

 

 

そうではなく、パルスみたいな、やつよ、自分という環境が静かになると鮮やかになるのは。

 

外界からの刺戟と拮抗する。

 

 

これがもうすこし、その励起が、いま少しなだらかになると、なんだろう、最終段階、ってなんだ、に近づくのか。

 

そうでもないのか。

 

 

こう熱いと。

枝葉がそがれて。

 

 

いまは、割合、静謐、な時空間。