啓発舎

マジすか? マジすよ

ひいやりした大気とコーヒーのこく。

浮かぶことがあったのだが、外では、ちょっと、なので、いま帰って再開。

 

 

◆動かされること、について。

 このところ、まあまあで、わりと、静謐、に近いかんじ。

 

 youtubeとか録画とかで室内楽なんか再生しているのだが、これが、よい。

 個別のコンテンツは省略するが。

 何がよいか、といって、毎回、動かされることです。

 もちろん微細、ではないが、そんなにおおげさなゆらぎではない。

 

 演奏会、特に室内楽とかは、その場にいるより、こうして、深夜、コーヒーを含みながら、聞きなれたカルテットを再生するほうが、豊かだ。

 

 youtubeは、ラジオオーケストラとかの、割合きちんとした映像が、ある。

フランクフルトとか、コンセルトヘボウとか。

 これが、よい。

 

こういうのと付き合っているだけで、この先半世紀ぐらいは、やわらかな時間の流れで遊べる。

 

 

というかんじの日常なのだよ。

 

もちろん、自分が、わりあい、自分の湖面が、しずか、かそけきさざ波、という環境が前提のことだが。

 

 

いま、昼だが窓の外は、雲がたおやかに広がり、整列、じゃない、清冽なかんじ。

 

いまは、音楽は、ない。

 

午後の、すずかなかんじ。

 

もうじき、光線が、少しずつ、やわらかになってくる。

 

 

 

という日常が、このN年、そうだな、私を領している。

 

 

この先の静かな時間の流れを思うと、豊穣、ということが、がうかぶ。

 

 

 

条件はただひとつ、静謐、清冽な環境を整えること。

手法は、ヒト、あるいは、ヒトヒトを排除すれば、ほぼ達成。

ヒトヒトというのは、ヒトの実物だけでなく、ヒトから漂う腐臭、ネットの雑音なんかが、むしろ主です。

簡単なことだ。

 

そういうが、高橋洋一とか竹中平蔵はどうなんだよ、ということになるのだが、これは、ヒトというより、滑稽と悲惨。の具現した、抽象的な事象なので、別によい。

 

ヒトは、滑稽と悲惨を体現するときのみ、主宰に許容される。

 

はは。