岩波『図書』6月号届く。
◆結核をめぐる二つの物語 斎藤真理子
存じ上げない方だが、簡潔な、達意の文章。
「狙いすまして手早く切られた刺身の断片のように崩れがなく、血が通ったまま凝固している」短編集であるならば、林芙美子をぜひ読んでみたい。女のどろどろは勘弁という宗旨を曲げて。と思った。
◆山室信一氏、連載終了。
最終回は、あたふたでした。切られたんだろうか。エログロは岩波編集の意に沿わなかったか。
◆隣にいるのは誰か 長谷川櫂
こいつの連載に感じる違和感は、感性が肝である徘徊、じゃない、俳諧の、その感性の講釈が、なんとも凡庸というか、ステロタイプというか、であることからくる、と気づいた。
いいかよく聞け
「隣は何をするヒトぞ」の解釈は、こうだ。
秋の夜もふけたというのに、隣のヒトは、いったいなにをやっているのか。鍵を二重にかけておこうか。
この解釈に、何十年前か、忘れもしない、図書のライバル誌『波』で接した時の新鮮な驚きを、私は生涯忘れないだろう。
通俗な中身をもってまわった口吻で飾るだけの説教節は、もうやめれ。
全般
岩波のお眼鏡にかなう奴は、どいつもこいつも、めそめそしてるよな。
めそめそ、というのは野郎に属する性根。
女の書き手の連載は、割と好調。