啓発舎

マジすか? マジすよ

図書6月号届く。

「上手い、おもしろい」という論考が、唯一「おもしろ」かった。
あとは、クズ。

「目の前が明るくなることが「おもしろい」の語源だとされる」のだそうだ。

それまでの枠組みがこわされて光がさしこみ、今まで見えなかったものがみえるようになる。と。

おれの用語だと、これは、啓示、だ。
サウロがパウロになる瞬間だ。
ちょっとおおげさじゃないの、斎藤亜矢さん、知らない方だが。

おもしろい、というたびに改心した日にゃ、この世の宗教哲学他あらゆるドグマを二週間ぐらいで総覧できそうだ。


でみ、まあ、この論考は「おもしろ」かった。おれの枠組みがこわされて光がさしこんだかどうかは心許ないが、目の前が少し明るくなるような気、も別にしないが、すこしものを考える契機nなった。

この方は、面白い、と上手を対比して、論を進める。

おれの用語だと、達者、ということでしょうか。

「達者」といういいかたをおれはよくする。このブログでもよくつかう。
あの人は「達者な人」だね、という言い方。
「図書」の連載陣だと、さだまさし
最初よんだときは、私としては滅多にないことだが、留保せず褒めた。
が、連載が進むと手つきが見えてくる。ああこの人は達者な人なんだ、というつかいかた。


また、「おもしろい」も、さいごの「い」を省略して、「おもしろ」と呼称する。
「おもしろい」と「おもしろ」は、いままで意識していなかったが、わたしの用語法では、たぶん区別していて、「おもしろい」は、斎藤氏の定義を1000倍ぐらい薄めるとだいたいしっくりする。
「おもしろ」は全然違う。
「おもしろ」は自然現象にはつかわない。人間が対象。
人間の、滑稽、と悲惨。この両者がないまぜになった事象であって、そこに第三者の作為が介在しないこと。
と、いま、仮に定義した。
「おもしろ」で急にあたりが明るくなったり枠組みがこわされて光がさしこんだりは、決して、しない。
既知の人間を再確認するのみ。
人間と他の動物を分ける要素は、まさにこの「おもしろ」があるかないかだけです。
おれが「おもしろ」を三度の飯より好むのは、ヒトが唯一感傷、なわけない、観照、ではさらにない、鑑賞、これだ、に耐えるのが、このことばで総称できる事象だからだ。
「おもしろ」以外、ヒトには興味ありません。

以上。