新潮10月号がおもしろいのなんの。
図書館で、いつものように流し読みしようと思ったら、ついついほじくり読みしてしまった。買おうかの衝動もあったが、図書館なので、買わないですんだのは幸いだ。
同一人物のなかに存在する「苦悩するブンガク青年」と「茶坊主」についての論考。
誠実に人生と向き合い呻吟するAと、臆面もなく尻尾ふるB。
それ自体はよくあるブンガク青年の成れの果て。
おもしろは、引用。
ブンガク青年A時代に書いたものから他者感覚、といったか、他者性といったか、について、青臭い文体でつべこべ言ってるのを載せている、おれ流に要約すると、世間に物申すときは、その対象に対する一定の理解と、自分を含めた客観性の視点が必要だ、というようなことか。
そうですか。
要するに、おれさまではダメだ、ということ。
そうですね。
正しい、正論である。
ここで、主宰は、るせえ、余計なお世話だ、とは断じて言わない。
おれさまをもって鳴る、自他ともに認めるこのおれさまが、「他者」を認めてどうする。
そっちはそっち、こっちはこっち、で世の中、というのはこっちの意だが、平穏なのではないか。
これこそバカボンのおやじ精神。
これでいいのだ。
では、なかったか。
おれは高橋源一郎は大嫌いだ。
だが、今回のおちょくりは、大目に見る。
というか、すげえおもしろだった。
これこそ、他者に対する鷹揚さ、全体を俯瞰する主宰の肚のふとさの例証なり。
で、おれさまのおれさま道中は続く。
◆新潮なんとか賞の選評
関川、養老両氏。
関川氏は、実は、おいらは、なんとなく肌合いが合う数少ない書き手であったりする。
養老さんは、何度も言うが、きちんと論旨をたどりながら読むと、そのうちなにがなんだかわからなくなる。この人の書くものは。なにを読んでも。
おれは、自分の読解力不足は絶対認めないから、書く方が悪い。
であるが、今回の選評は、めずらしく腑に落ちた。
選評を論評するのは、屋上屋なのでしない。
お二方とも、南という男の人物を正確に特定しているので、「そっちはそっちで極めてくれ」とうっちゃりかましているだけです。
とことん正しい。
ところで、新潮社は、高橋論文の掲載誌の選定でまたしくじった。
これこそ新潮4511月号に載せるべき、それがいちばん座りが良い。
特集タイトルは「世の中ゼニだ、文句あっか」
で、高橋がエールを送った橋下にも登場願う。
食い詰めたブンガク青年が転ぶ相場はいくらぐらいかを自らの経験に即して明らかにする、と。
だいたい100万ぐらいですか、円で。
「休刊」なんだから「復刊」すれぼいいだけのこと。
おれは買ってやるよ。
以上。