で、今日は日常回復。
雨だし、近場で飯食って、いつものカフェでぼーっとする。
きのうとうってかわって、地味な展開であるのだが。
ところで、きのうと今日と、どっちがいいか。
いいか、というのは語弊がある、良し悪しではない。
楽しいか、というのも違和感。ディズニーランドじゃあるまいし。
ま、しみじみ、とか、安らぐとかいうことでしょうね。
そりゃ、今日ですよ。
きのうの、ヒトと会い飯を食い、の時間の流れは、よろしゅうござんした。たいへん結構でした。
一転、今日は、自分と水入らず。寸断されない時間が流れる。しかもきのうの余韻があるから、なおさら。
外向きになにやらやるのは、そのあと自分と再会する時間を引き立たせるための、きのう食った刺身でいえば、ツマ、のようなもの、と見つけたり。
では、昨日の相手は、シソだの大葉と一緒か、ということは、全くない。
そもそも、いやな相手とは、絶対飯などくわん。
というのはマクラで、こないだ読んだ「なぜ今仏教なのか」というトホホなタイトルの、原題の Why Buddhism is trueのほうがよほどしっくりくる、本に触発されて、進化心理学とかをかじっている。
ヒトの刺激に対する反応とか、アルゴリズムとかは、狩猟採集の時代からかわっていない。と。
外からの働きかけに、だから、不必要に過剰に反応する。
レジで会計するのと、インパラを仕留めるのは、必要なモチベーション、運動量、全然ちがう。
にもかかわらず、反応の仕組みはおなじ、と。で、なにかと不具合が生ずる。
あと、「もっともっと」の衝動。
「初期仏教」(岩波新書)にいう「渇望」というやつか。
で、そういうのは、無駄だから、いまは狩猟採集の時代じゃないから、自分に負荷がかかるだけだから、やめて、ぼーっとしようよ。
というのが、仏教、とくにその初期、の本質だ、と。
で、現に、いま、私は、いつものように、ぼーっとしている。
きのうのセッションは、別に食うかくわれるか、ではない。
相手が、突然箸をこちらに向けておれの耳のあたりをかじり出す、ということはなかった。
だが、やはり、サバンナの気配が漂っていなかったか、かすかに、微量に、といわれれば、精度の高い検出器で測定したら、針が微動だにしない、とは言い切れない。
では、余計な情動を排することでなにかご利益があるか。
梵我一如はご都合主義だと、岩波「初期仏教」は、あばいた。
その真偽はわからぬが、おれにはしっくりする。
「なぜいま仏教なのか」の作者は、悟りに一章割いているが、進化心理学の解説をするときの明晰さは、まるで無く、饒舌であるが、論旨不明。
そこでおいらの登場だ。
さあお立合い皆の衆。
というところでお時間です。