啓発舎

マジすか? マジすよ

身過ぎ世過ぎ

水泳だの天気だのの話ばかりなのは、当然、それ以外のことが書くのになじまないからに他ならない。
身過ぎ世過ぎ、という言葉は割と気に入っていて、食うために世間と関わっている、というおいらの気分に合う。
仕事の打ち合わせで普段あまり接触のない同年配のおやじと飯を食う機会があったのだが、平素あまり深いつきあいではないことで却って気楽に話していただけたのか、仕事をするということに、倦み疲れた、飽き飽きした、というような内容のことを綿々と語られたのだった、本題と関係なく。
一見、そこそこのポジションでそこそこの業務をそこそここなしている、という外観の方だっただけに、これは意外であった。それ以前に、同じ組織に属する人間は、連帯感などさらになく、当然互いに警戒、用心しているから、この種の言辞を弄するのは、危険、という認識はお持ちのはずだ。
そういうリスク感覚すらどうでもいい、ということがなにかあったのか。
 これとは別に、当方より3つ4つ年は若いが、ずっとトップ集団を走り続けている、ファイティングポーズのおじさんが、「私の恵まれないサラリーマン生活で・・・」という切り出しで話はじめ、当然聞き流すと、「いやその、私の恵まれない・・・」と繰り返され、これはすこし辟易、ということが、きのうあった。
こちらは、事情を忖度できるところがあり、この人は、最近微妙に組織の中での立ち位置がかわったのであった。
この微妙なバランスの変化は、次の動きで一挙に足場が崩れる危険をはらむことがままある。
で、その足場が高いところであれば崩れた先は、深い谷間だったりする。


 そこへいくと、私など、組織の中での立ち位置などどうでもいいという了見によって少なくともこの10年以上は持ちこたえているので、上記のおやじたちの感受性は理解はできるが、やはり、バカスケと思わざるを得ない。


所詮、身過ぎ世過ぎということよ。


ただ、最近の世のシビアさには加速度がついているから、とりあえずいまあるロープにしがみつく腕力だけは確保しておこう、ということなのね。


やるべきことは他にあって、それは割合自分の中ではっきりした姿になっている、ということは、安定要因ではある。
それには、途切れない時間の流れが必要だから今の組織とは相いれない。

食う地盤が盤石であればいいので、その地盤のれんがをこつこつ積んではいるが、世の中の動き、右肩下がりの動きのなかで、なかなか油断はできない。

まあそんなところです。