啓発舎

マジすか? マジすよ

岩波「図書」12月号届く。
月に一度のブンガクの時間。

ではあるのだが、のっけからなんだが、毎号この冊子を読むのは、おれが如何にブンガクから縁遠いか、違和感をしみじみ味わうよろこび、があるからだ。


ブンガクだけでなく自然科学の論考もあって、これはたいてい面白い。
研究者が、自分の興味の趣くところを飾らずに書くのを読むのは楽しい。


けたたましいのはすぐ読むのをやめる。
筆者は全員、女だ。
女の書くものが全部やかましいとは言えないが、騒々しいものは、全部女がかいたやつ。
特徴は「!」だ。ビックリマークの多用。
それと唐突な会話の抜き出し。
両者があわさるとこんな具合。

「その友人が代筆した!」
「そう!彼の手が美しい筆跡で〜」

文脈からすると普通に話しているようなのだが、これだけ見ると怒鳴り合いだよな。

別の筆者で文字通りこういうのがあった。

からだとこころに関する「!」にいやでも向き合うことになった。

ほんとに。文字通り、!、だけ。
ところで「!」は、なんと読むんだい。



戻す。
で、残るは、男が書いたブンガクで、若松英輔氏が延々連載している漱石のココロの評論なんかその代表だが、これが、おれにはちっともわからない。
響かない。
そりゃそうだ、心は漱石の失敗作だという認識だから、こっちは。
おれの「先生」のイメージは、脆弱な自意識に溺れる大人になりそこなったおやじ。
その女々しい繰り言から延々心理解剖を続ける若松さんは、エラい。
たぶん、優れた論考なのだろう。
それにゆさぶられないおれは、ブンガクから縁遠いのだね。
だが、全然がっかりしない。晴朗である。
そんなブンガクは真っ平だ。


中原中也の詩で

私の青春はもはや堅い血管となり、/その中を曼殊沙華と夕陽とがゆきすぎる

というのを評者が絶賛する。
「青春」が「堅い血管」になるというのはなんと卓抜な比喩だろう、と。


おれの感想はこうだ。
この詩句を書いたのが若造なら、かろうじて許す。これを若書きした中原は、だから大目にみてやる。
が、30過ぎて、大人になって、いや、いまの成人年令は45ぐらいか、40過ぎてこんなのを書いたら、それはそいつの羞恥心の欠如を示すだけだ。
昭和初期は、「青春」が、まだ、堂々とつかえた時代だったのか。
まだ手垢にまみれず、腐臭を放つ言葉ではなかったのか。



ざっと、そんなとこ。
今月号は高橋三千綱さん、おちゃらけがすぎた。
調子にのりそうになるときほど、抑えることが大事、
というのはおれの自戒でもあるか。


お後がよろしいようで。