井筒俊彦全集完成記念講演会
未来に向けての井筒俊彦
主催 慶應義塾大学言語文化研究所
に行ってきた。
良かったです。
◆意味論としての井筒・東洋哲学
澤井義次
◆井筒俊彦の起源−『言語と呪術』をめぐって
安藤礼二
◆井筒俊彦と老荘思想
中島隆博
◆井筒俊彦の哲学的遺物−形而上学としての和歌
若松英輔
極端な玉石混交であった。
まず、石。それぞれに対する好悪の思い入れはないので簡潔に。
安藤氏は、書いたものと見事に一緒。おもちゃ箱をひっくり返してみました、片付ける知恵はありません、というスタイル、支離滅裂でありました。
声の音量は一貫してクレッシェンド、しまいには興奮して絶叫、投票日前夜最後のお願い状態だったよ。ほんとに。
こういうわけのわからないパフォーマンスが、だから人文系は理屈なしの言いたい放題査読に耐えないおつむ弱いぜつぶそうよ、と文部省に突っ込む隙を与えるんじゃないの、という老婆心、余計なお世話か。
中島氏は老荘の要領のよい解説だったが、井筒氏がらみの必然性は奈辺にありや。
次。玉ね。
澤井義次氏
井筒の業績を40分で手際よく概観された。
随所にはさまれた井筒のエピソードも興味深かった。
読み込みとか、考え癖は、当方も共感する。
シャンカラ専門だということもあるか。
本質は虚妄、無というか有というかは流派の言いようで、究極は絶対無分節に帰着する。
表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々な事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることのできる人。
表層、深層の両領域にわたる意識の形而上的、形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現れている。
このあたりが晩年の井筒さんの根っこか、と。
おいらなりに要すれば。
花が存在しているのも、存在が花しているのも、両方見える。
そういう人で、私もありたいよ。
と駄馬であるおれなども思いました。
修行しよう。
玉のもう一人は若松英輔氏。
テーマは、井筒と和歌、ということだったが、その前の中島氏の講演で、井筒の老荘理解は現在の通説とは異なる、という指摘に触発されたか、じつはカバラの理解についてユダヤ教研究者から同じことを言われている、誤読は問題ではない、むしろ正しい誤読こそ誠実なありかただ、として、井筒のテキストも、それぞれの問題意識で読むべし、それが「未来に向けての井筒俊彦だ」というような内容を、アカデミズムの硬直性に対する控えめな揶揄、というのは、失礼、個人的な印象、を交えながら、在野の研究の自由さを割合強く語っていたように思う。以上、当方の勝手な要約。
熱がはいっていました。
質疑はもっぱら若松氏が受け、最後にアカデミズム代表の中島氏は、むしろ質問子としてこの場に参加したかった、という、謙虚なご発言。
面白かったですよ。
テレビの伊集院がインタヴューする番組の印象では、若松氏は、つぶらな瞳の気弱な聖人君子というかんじだったが、骨もある、ということが今日わかった。
そんなとこ。