N響第1837回 定期公演 Bプログラム
シューベルト/交響曲 第7番 ロ短調 D.759「未完成」
プロコフィエフ/交響曲 第6番 変ホ短調 作品111
指揮:ネーメ・ヤルヴィ
プロコは、初めて聞く。
終楽章で盛り上がる。コンマス伊藤氏が早いパッセージをがしがし弾いていたのが印象的。見た目では、1プルトとその他プルトの奏者の温度差をちょっと感じた、見た目では。
型どおり、沈んで最後爆発、という構成。
型どおり、というのは、プロコもショスタコもチャイコにしても、景気のよい出だし、暗さに惑溺、狂騒、しかもそのコントラストが極端、という演出が大好きだ、まさに、ロシアのお家芸、型どおり、お作法どおりの展開。
で、ぶった切るように終わる。
良かった。
ここで、コンサートから離れる。
ここから先は、筆者のつぶやきよ。N響評を読みたい人は、他にいってください。
前回、マーラーのときにも書いたが、音楽と、こういうブンガク的演出について。
会報読むと、毎度おなじみスターリニズムの弾圧どうのこうの関連の解説があり、この曲も、初演からわずか4か月で演奏レパートリーから消えたそうな。
そういうの、もうどうでもいいよ。
音楽としてどうか、だけです。
弦が木管が溶け込む時空間が出来するか、金管咆哮でビッグバンが起こるか、だけです、もう。
プロコの、痛痒い、みたいなハーモニーは、割と好きです。
だけど、政治的なあてこすりとか、そういうのを読んでどうこう、というのは、どうでもいい。
ショスタ5も、どうでもいい。
どう聴いてもあれはレクイエムです、背景を捨象しても。
ところで、一曲目がまた、パパヤルヴィの底意を忖度したくなるようなプログラム構成。
人類の宝、未完成。
言い古されたことで、いまさらおいらが付け加えることもないが、この曲冒頭からチェロの第一主題にかけては、奇跡ですよ。
アマチュアで聴いてもスマホで聴いても(まだきいてない、こんどききます)、なんだかとてつもなく悲しいこと、取り返しのつかないことがこれから始まる、という言語化できない胸騒ぎが毎回たちまち私の全身を領する、と思わずブンガクしたくなる。
で、第一主題は、ドーソードーシードレードシードレソラシド、というメロディーだけ取り出すと能天気な音列だ。
空は青いぜ雲は白いぜという旋律。
それがどうだ。
自分で弾いてても思うのだが、これはお葬式です。すでに悲劇は終わっている。
で、遅れて、金管が悲報を伝えに来る。
除草、でも女装、でもない、序奏が運命を定める、なんちゅう緊張感、美しさ。
ブンガクしなくても、言語化以前でここまで雄弁だぞ、音楽は、人を動かすぞ。
こういう曲と、プロコを掛け合わせるとなにが起きるか。
弦の大群を基本にした楽曲は今度の戰でおわり、という実もふたもない冷厳な事実認識と我々聴衆が対峙する。
パパヤルヴィの、それが、狙いか。
て、ことはないか。一人称複数はちょっとつらいが、少なくとも一人称単数は、即ちおれさまは、向き合わされた。
自分の感想をわれわれ、と一般化することは厳に慎まないといけないが。
プロコは電気楽器でいいよ。似合うよ。坂本龍一がばっちり編曲します。