気の進まないことはなるべくしない、というのが、おいらの行動パターンの根っこだ、ということを自覚したのはいつごろだっただろうか。
この夏から環境がかわり、上の「なるべく」をトルことができるようになり、今では「気の進まないことはしない」と言い切ることができるようになった。
「なるべく」というのは、世間様と折り合いをつけるためには大事なことだ。
いたしかたなく気の進まないことをすることを余儀なくされることはあるので、そのほとんどは、人と人とのことだ。
どうも気が進まないけどいまここで月面宙返りをやろう、という自分単独で解決することではなく、成り行きで××と昼飯を食うという、「人と」のこと。それも些細なこと。
これがなくなったおかげで、外的な負荷の感覚、ストレスというんですか、が激減した、ように思う。
週刊誌とかのセンセーショナリズムに違和感、というのは、どうもそのあたりと関係するんじゃなかろうか、と、いま思った。
みんな、なにキーキーはら立ててるんだ、というか、怒りたがっているのか、という感覚。
身近な人とのストレスを転嫁してぶつけてるだけなんじゃありませんか。
まあ、それは今回の本題ではない、みなさん、キーキーやりたい人はやってください。
今回はおいら自身のことだ。
で、余計な「人と人のこと」がなくなると、普通の、気が進まなくない「人と人のこと」だけ残り、人と人、が、とても大切になってくる。
では、余計でないこと、とはどんなことか。
たとえばスーパーのレジで会計する。これは余計なことではない。
あばさんレジを打つ、当方受け取る、先方ありがとうございますまたお越しください、と型どおり言う、当方無言でうなづく、というやりとり。
ありがとうございます、とおいらも心の中で思う。
これ、立派に人と人のこと、です、いまの当方にとっては。
別に、自分以外みんなに感謝とか、そういう人生訓のようなことではなくて、そういうお説教みたいなのはもともと大嫌いですから、そうではなく、自発的に、勝手にそうなる。
人類全体を抱きしめるマンデラさんのような包容力は、もとよりおいらには、ない。
また、そうするつもりも別にない。
そうではなく、普通に日常接触する普通の人に対して、自然に感じてしまう善意のようなもの。
咄嗟に、反射的にでてしまう「あ、ありがとうございます」感。
気の進まない「人と人」はもとより無いのだから、普通の善意でいられる。
不機嫌なウエイトレス、なんてのも、だから、OKなんです。いやじゃないです。大戸屋ランチ運んでくれるのですから。
なんとなく気の進まない、というあたり、その集積、が、ボディーブローだったんだな、と、あの何気ないやりとり、この出来事、に思う。
この件、もうすこし発酵させたい。