啓発舎

マジすか? マジすよ

怒涛の花見週間が過ぎ、街全体が少し落ち着きを取り戻した。
今日は、まえからやりたかったこと、頭の中を、あまり関所を通さないではきだすこと、をしてみたい。

自分と環境のやりとりのここ数年での変化について。
環境は、人、とそれ以外にわける。
ここ数年というのは、組織の中にいたころとそれ以後の劇的変化を見通せる範囲。


じゃ、開始。

わかりやすいのは、人、なのでそっちからいく。
これは、環境要因もわかりやすくて、自発的ではない、あっちが勝手に決めたAさんBさん以下符号491,673番さんぐらいの人とのやりとりを余儀なくされる、ということが、きれいさっぱりなくなった。
身過ぎ世過ぎがらみの義理でのやりとりをしなくてよくなった。
これが3年前に起こったこと。
ここ1,2年その残務整理をしていて、今、なんだか気が進まないなあ、というつきあいは、一切なくなった、一切。
ずいぶん切りました。

それで何が起こったかというと、当方が相手する人全員に対して、善意100%で接することができるようになった。
私に連絡してくる既知の方々は、例外なく、当方の声に安堵の響きを感じていただけている、と、勝手に思う。

そうなるとどうなるかというと、当然、人、以外に向かう、意識が。
ここで、人、というのは、他人のことですね。

だから正確には、他人以外。意識は他人以外に向かう。
人以外の森羅万象、と、自分、に向かう。
ここで、自分もまた環境だと、マトリューシカみたいな議論は、今回は措く。
自分とはなんぞや、は、またあとで。


ということで、日々やってる。

だから、東御苑なんか、自分みたいなもんですよ、いまや。
自分の中に入り込んでるのと一緒です。


そうすっと、息をすったりなんかしているという、時間が過ぎているという感覚が、研ぎ澄まされてくる、というのは言い過ぎですか、そこにしか意識が向かわなくなってくるでしょう、あなたも。実は私もそうなんです。
だいたい、あれです、音が聞こえてくるのがそのサインですよね。
樹々のそよぐ音。小鳥の声。


五感は、まだある。樹々のそよぎが、まるで、世界が、それだけで構成されているように、鮮やかにきこえる。



で、さらに。


その先は、ちょっとまた、ということで、今日はこの五感のところでわだかまることにしたい。


ところで。
いくらなんでもこのブログ、マンネリなので、やめようと思って、読み返したら、それどころじゃなくなった、ということが最近あった。
自分でわからない自分のヒント満載。
マンネリで書いているから。
で、改めて新しい読者、おれ、をゲットして、マンネリは続く。
戻す。

五感、というのは、そのマンネリブログの、このところの、マンネリキーワードだ、どうみても。
なにかというと五感、五感というおれさまだ。
あと、特徴は、五感、というと、そこで文章がぶった切られて、おわっちゃうんだよね。
すてぜりふ。


生きる、というものいいはどうもぴんとこなくて、時間を過ごす、というほうが気に入っているのでその言い方をするが、時間を過ごす、ということの究極は、五感で、五感というのは、脳みそで加工していない、それは無理であれば、最低限の処理しかしてない状態で、それで時間を過ごすということだ。
美、ということばが、一番近い感覚だ。


別に桜がさいていなくてもいい。
いまなんか、若葉が黄色く、美しいですよ。
いや、葉っぱもなくて、空が雲でおおわれて、でも、なんでもいい。





それが日常になれば、そりゃ、あとはどうでもよくなりますよ。



これも最近言う、いろんなことがどうでもいい、というのは、だいたい、そういう気分です。





この日常がいちばんはっきり中断されるのは、軍歌でも救急車でも観光ピープルでもなくて、ひとさまなんですの。

let me alone
も必然ですね。


気候がよくなって、ひとさま方面がもぞもぞ動き始めているようです。
波風エネルギーを極小に、受けとめたり受け流したりしたいもんです。もちろん善意100%よ。