10月にはいっていろいろあったごたごたがそれぞれ収束に向かっている。こういうこともあるもんだ。
というわけで、なんだか無重力っぽい週末。
このところ折にふれ脳裏、というか眼前に展開するイメージから、去年までの4年間が如何に濃い時間だったかと、つくづく思う。
それに比べて今は、と論を進めるつもりはない。そのときはそのとき、いまはいまだ。
いまはいまで、あるとっかかりを感じているのでもあることだし。
きのうだか、おとといだか、突然万博公園の映像がうかんだ。昼間。
茶室のあたり。おととしの12月訪れたときの晩秋の午後の空気の清冽さとともに。
時間が凍りついている、あの感覚ごと。
たとえば、つまりそういうことだ。
その場にいあわせる、ということもだいじだが、その空気、空間の感覚、時間の意識、というのは抽象化する。
たとえば、今日のような、浮世のもろもろから一時的にせよ離れているとき、その感覚のみが去来するとしたら、それは、ある状態だ、ということだ、実際にいま、そういう状態である、ということではないが。
その、ある状態、ということ。
このあたりが、かれこれふた昔前からやってきたことの、ある種の達成、としてもよいのではないか、という漠然とした思い。
たとえば、その、万博公園(日本庭園は保存するべき!)とか、なんとか離宮とか、かんとか寺とかは、触媒として優れた機能を果たす。
特に、なんとか離宮は、当方にとって、再現性のある場所だったりする、即ち、複数回訪れて、都度、同じ体験をする。かんとか寺も、そう。
触媒は多いにこしたことはない。そこらを適当に散歩していて、目に触れるもの音に聞くものの悉くが、ある種の超越の扉を開くとすれば、それはそのまま、浄土、といってよいか、究極の空間そのもの、ということにもなろう。
残念ながら、東京は、そういう街ではないが。
たとえば、恵比寿スタバで三条スタバがフラッシュバックする、ということはあるが、それをもって、恵比寿スタバが、そういう磁力のある空間である、というわけにはいかない。
三条スタバにはそれがあるが、恵比寿は、その空間を想起させる装置、それはそれで貴重ではあるが。
漠然とした、とっかかり、というのは、つまりそういうことで、今読み返しても、なんだかまだるっこしいことを書き連ねているが、自分にわかればそれでいい。
いずれにしろ、日常、自分にそういう感覚が戻ってきた、というのは、たいへん喜ばしいことです。
今日は、完全にモノローグ。自分との対話。