物語 数学の歴史 を読んで。
<ユークリッド幾何学公準5>
二つの直線と、それらに交わる一つの直線が同じ側に作る内角の和が2直角より小ならば、その2直線はそちらの側の一点で交わる。
これを証明しようとする試みが1000年うまくいかず、しまいには、おいほんとかよ、ということになって非ユークリッド幾何学が生まれた、ということか、要約すると。
交わらなくてもいいじゃん。そういう空間もありだ、と。
「見る」ことからスタートした西洋数学。
その、「見れば自明」を計算に置き換えようとして発展するが複雑さのあまりにっちもさっちもいかなくなる。
で、リーマンが登場し、新たな「面」の理論を生み出す、と。
そこで登場するリーマン面は、「浮き袋」。
アインシュタインの「空間が曲がっている」一般相対性理論の数理モデルにもリーマン幾何学は応用されている、と。
へえ。
時空については、宗教からのアプローチもある。そっちの方は、かつておいらもあれこれ渉猟した。
道元さんなんか、その代表選手だ。
ナーガールジュナなんかもそうか。龍樹。
哲学は、どうか。
ハイデッガーか。
なんで、夜中にこんなことをぐだぐだ言うかというと、
たとえば、今手をのばせば机の上のコースターをつかむことができる、という、慣れ親しんだ三次元空間が、絶対のものじゃないかもしれない、という感覚は、実はおいらにもあるのであった。
時間と空間がふにゃっとなる感が。
おいらなんか凡夫だから、あくまで感覚ね、感覚。リーマンやら道元やらとは違う。
で、その、時間と空間がふにゃっとなる感覚は、その混沌のなかに自分もいる、というか、自分であり普遍でもある、というか、そういう、五感でいうと皮膚感覚、触覚にいちばん近い感覚を覚える、さらにその感覚すら、やおら消失する、ということが、ある。
美、なんていう言葉を登場させてしまうか思いきって、という、そういう混沌。
「物語 数学の歴史」を一応読み終わって、なんだか、そんなことを思い返した。