啓発舎

マジすか? マジすよ

思わず考えた。

さっきETV50なる教育テレビの特集で瀬戸内寂聴氏のインタヴューをやっていた、城島が。いい味だしてました、リーダー。
寂聴さんはどうか。
話は少しそれて、これも今日の日経。寂聴さんが連載している。機縁まんだら。福田恒存氏の回など、面白かったですが。今回は、中村歌右衛門
 寂聴さんのインタヴューとこの連載にあわせて接すると、まあ、どうですかね。その文章はもってまわった言い方ではあるけれど、底意のある、なかなかどうして一筋縄ではいかない方だなあ、ということはよくわかる。おばあちゃん、なにをごちゃごちゃ言ってるんだろう。歌右衛門の中に自分の同類を見ている、ということではないかしら。

 出家といえば、当方などその願望だけで生きているようなところがあり、他人事ではない。
 ただ、煩悩とか、その煩悩を捨てるとかいうせりふには違和感がある。
今日の連載を見るに、失礼だが、寂聴氏、まだ、煩悩を、しかも人並みはずれた重さの煩悩を抱えていらっしゃるようにお見受けする。
 煩悩、別にいいじゃないか。人間の基本的な属性のひとつだろう。

 出家というのは、時空を観ずることだ。当方には。

 人間の営為がどうしたこうしたなんて、別に関係ない。煩悩あろうがなかろうがどうでもいい。

 五感のセンサーとして時空を体感することだ。
 そのためには、自分で領することのできる、途切れない時間の流れがどうしても、要る。
 いま時間の「流れ」といったがこれは便宜的な表現で、時間が「流れて」いるかどうか、それはわからない。妖しいと思う。
 ともあれ、自分を浮世の枷から解き放って、ひとつの五感のセンサーとしてあり続けるということ、そのものだ。

 寂聴さんに触発されておもわず自分の足許を見てしまった。