啓発舎

マジすか? マジすよ

こういう暮らしをしていると、時間がごっちゃになる。
特に寝起きなんか。
当面どうのこうのするというこがない、ないようにしているから、起き抜けぼーっとした頭に浮かぶのは、とんでもない昔のことであったりする、ことがよくある。
あ、今日は幼稚園の運動会だ、ということはさすがにないが、中学ぐらいのことが、現に今のこととしてうかぶ。
誰それのお姿とともに。
で、最近、その誰それと、今現在の用事でやりとりしていたりすると、14歳の少年のお顔といまのおやじヅラのどっちがどっちだ、ととっさにわからなくなったりもする。
では先のことはどうか。


こういう暮らしをしていると、一週間後、三か月後、3年後100年後も、だいたいおなじだろう、というかんじが体にしみつく。
そうすると、未来も先取りというか、きのうがあって今で明日がある、という感覚が薄れてくるときがある。

今と30年前と30年後がごっちゃになる。


できごととかもそうなので、或は周囲の人々も。
今現在、何らか交渉のある数少ない人々と、過去なんか往来のあった人たち、今も昔もやりとりしている人、それもごっちゃになる。


というのが今の私の時空間だ。


それはおそらく自分の中に、世界が開いているからだと思う。
世界は自分の裡にあるからだ、と体感する。


わずらわされない時間、と空間を確保する、というのは、そういう意味がある。


いまさっき、電話で昔も今もの方と話したのだが、これなんかあの世と交信しているのと同じです。