昨日、京都で、決しておおげさでなく、あしかけ50年生きてきて初めて、という体験があった。
以前から、焼き物の類の見分けには、全く自信がなかった。
それなりに道具やを覗いて見るのだが、これは、いいもの、といわれても、その良さがピンとこない。
まして、比較してどちらのほうが、などと目利きのようなことはとてもできなかった。
ところが、昨日、お能の帰りにふとのぞいた寺町通りの店で、結構な値のついた茶碗を触ってもいいと言われ、何気なく手にとって、はっとした。
わかった、のだ。
残念ながら、それは、あまりいい茶碗とはいえないようだった。
良否はともかく、この、わかった、という感覚が新鮮だった。
紛れもなく、お茶の稽古を始めて、良い茶碗を数多く手にとることができたおかげだ、ということは、即座に感じた。
手が、それを扱った感覚を覚えていて、それとの違い、質感、手触り、重さ、しっとり感(これが、なかった!)、を判断したのだ。
お稽古で茶碗に触れているときには、まあお点前もろくにできないので段取りを追うので精一杯ということもあるが、その都度扱っている茶碗の良さを鑑賞する、という意識は、ほとんどなかった。
それが、お店の茶碗を持った瞬間、逆に、お稽古での茶碗の質感が甦ってきた。
豊かな瞬間だった。
五感の中で、触感で感じる美しさ、という感覚には、あまり慣れていない。
それが、一気にわかった。
冒頭書いた「わかった」の意味は、そういうことだ。
もちろん、昨日今日の経験で焼き物について全てがわかったなどと言うつもりは毛頭ないが、手がかりは掴んだ、端緒についたぞ、という感じ。
気長にいこう。