啓発舎

マジすか? マジすよ

いいおしめりでした。
今聴いているビルエヴァンスが夜気にあう。


こんなのいかが。

中身なし、マニュアル頼み、上から目線......「日本すごい」に異議あり
Authentic Fakes
2018年5月8日(火)18時21分
デービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長)

<前段略>
そもそも上層階級に支えられたお茶は、明治維新封建制度という支援者を失った。その生存戦略として上層階級の趣味から、大衆にも分かりやすい「茶道」へマニュアル化。それまでは武士があぐらをかいていたのが女性が主流となり、客でも正座が決まりとなった。雇われて裏でお茶をたてていた家元などは表舞台で「先生」となり、「教授」などの免状もできた。
こうしてお稽古と化した茶道が迎えたのが、戦後の人口増加社会だ。家元を頂点としたピラミッドが膨張し、増加する弟子に対処するにはマニュアルでさばいて稽古するしかない。大寄せ茶会のような光景は人口増がもたらしたものだ。今の茶人が総合芸術をかさに着て、お花、書、お香など本来深い文化をかじった程度であたかも達人のように自慢をする姿は見苦しい。かく言う私自身も、偽物の書の前に深々と頭を下げたり、専門家に披露して恥をかいたりしたこともしばしばだ。
生存のため道を強調したのを忘れた、魂の宿らないマニュアル作法は総合芸術でも文化でもなく「緑の宗教」だ。
今の日本文化に関して危機感を感じるのは、あまりにも中身を伴わないことだ。「日本家屋がすごい」と言う人の家に畳もない。「日本の神様がすごい」と言う人の家に神棚があるわけでもない。「伝統行事がすごい」と言う人は他国の宗教行事たるハロウィーンをやるが門松は飾らない。日本文化を知らないで自慢だけはやめてほしい。
自分は面倒だからやらないが、1億数千万人の誰かがやってくれる――。こんな他人任せも、人口増加社会の特徴だ。もはや人口減少でそんな時代は終わった。日本文化を誇って発信したければ、自分でやるしかない。「すごい」と言うなら、自らの手で「すごいもの」を作り出す。そうしなければ、日本文化は自慢ばかりで誰にも担われないまま、衰退してしまう。
お稽古ではなく、日本文化を守るため真に極めるべき時代が来ている。
<後略>

外国人の日本文化評は、退いて受け取ることにしているが、この記事は、概ね正鵠を射ている、と思う。

お茶は、おれもやったから、少しは言う資格はあるだろう。


我慢してお稽古に通っていると、ときどき、奇跡のような時空間が現出する。
当時は「美の不意打ち」とかいってはしゃいでいた。

上のコラムの筆者は、マニュアル化してココロがはいっていない、と茶道を叱るが、それは別に耳新しい言説ではなく、ずっと言われてきた。
実際、がちがちにマニュアル化していて、窮屈ではあったが、形を整えていくと、ある瞬間に、別の時空にぶっとぶ、ような体感は、たまに、あった。



茶道は深いですよ。


ただ、それを差配する「お茶人さん」の優越意識は、滑稽でしたね。

それを薄めると、いまのこの国に蔓延する「日本すごい」になる。


ほんとに「日本すごい」を体感したかったら、お茶は、いいかもしれない。
先生はほんとんどダメなので、自分で勝手にお茶の急所をみっけるしかないとは思うけど。
ヒントはそこら中におっこっています。
お道具も着物も全然関係ありません。
着物なんか、むしろ邪魔です。


日本すごい」なら、すごい日本を自分で作りだせよ、というのは、ほんとにその通りです。

自分で作り出すというのは、黒楽茶碗の銘品をつくれ、とかいうことではなく、日本すごい、の、その「すごい」刹那を自分で拾う、ぐらいのことをしたらどうかね。



はい、本日は、繰り言編でした。