啓発舎

マジすか? マジすよ

久しぶりにマイスター・エックハルトを拾い読みして思ったこと。

 メンバーのひとりが「噺家」になって、自分で選んだテーマについて語る、という形式の会合を高校の同級生とかれこれ15年以上続けている。主宰のF氏、S氏のご尽力の賜物だが、だいたい中途で百家争鳴になって収拾がつかなくなり、ただの飲み会に移行するという、構成及び構成員そのものの「緩さ」も長く存続している要素だと思う。

 その会合で、10年ほどまえ、指名を受け、当方が「噺家」になって「神秘主義について」と題してなにやらしゃべったことがある。
 当時自分の中でもやもやしていたことは「そのこと」しかない。切実なこと、まじめに考えていることについて喋るのは相手を選ばなければならないけれど、このメンバーなら十分安心できる。というわけで、頭の中にあることを吐き出してみるか、という気になった。タイトルは、なんでもよかった、エキュメニズムでも「悟り」でも宗教的行についてでも。
 その時ひらめいたのが、この人、マイスターエックハルト、中世キリスト教神秘主義の巨人。この人を主軸にすると話の流れがよくなりそうだ、「片手の音を聞け」なんていう問答よりは、なんといってもロジカルだ。で、「神秘主義について」と整理することにした。
 当時は、今より尖がっていたし頭でっかちだったから、エックハルトを主軸にしてインド六派哲学だのスーフィーだの禅だのトランスパーソナルだの新プラトン主義だのをちりばめたレジュメも作って持っていった。
 で、大いなる「一」への合一、そのための行の実践、てなことを韜晦しながらのらりくらり喋ったのであった。
 話それるが、みんな当方の10代のころからの悪行を知っているから、この日も話半ばで「そういうオメーはどうなんだ」的な切り返しが矢のように放たれ、たしかに、この私が、ある意味、およそ人として向かうべき究極について語るなどちゃんちゃらおかしいとは自分でも思うのではあるが、そのときも、エックハルトの「蝶番理論」(扉を開閉するとき、扉は動くが蝶番は微動だにしない:即ち、見かけ、外面の私と内面の私の静寂は全く違うのだ)を援用して応酬したような記憶がある。この理屈は「言い訳につかえる」と一部に大受けした。エックハルト様、罰当たりな引用、曲解をさせていただいておりました。懺悔。

 あれから10年以上経つけれど、基本的なスタンスというか、ベクトルは、変わりませんね、まじめな話。

 いま、再読すると、エックハルト様は、キリスト教的「神と人」の二元論の世界のなかで、ずいぶん窮屈な思いをされたんだな、とその著作の言い張る強さに、しみじみ思った。
 あと、この方は、どういう行をされたのだろう。
 新プラトン主義とかトマス・アクイナスとかの理屈からだけでは、あの透徹した勁い思考は出てこない、絶対、行が伴っているはずだ。


 いま、突然思いついたが、西洋(の人)と東洋(のひと)の違いは、細胞壁と細胞膜の違いではないか。
 植物の細胞は強固な壁で仕切られていて相互の行き来はあまりなるけれど、動物の細胞は膜で、薄く、中身(栄養とか)の行き来も結構ある、と昔生物で習った。細胞壁が西洋で、細胞膜が東洋。
 自己と他者、人間界と自然界の垣根が、先方は強く当方は薄い。強い、と薄いは、全然対応していないが、西洋人のイメージとしては、厚いというより強固というかんじ。

 西洋的な知性がこの種の道に志すと、まず、自分とそれ以外を隔てる壁をドリルでぶち壊すことから始めなくてはいけなくて、それに結構てこずるのではないか。
 トランスパーソナル理論のまだるっこさなどにもそれを感じる。
 
 こちとら、曖昧民族、二元論など措定せず、どんどこどんどこ進むだけ。
 というより、なんだか究極へ向かう、というとき、自分と環境との融合云々でなく、ただひたすら一なるものに向かう、というそっちのベクトルで進むだけ。
 もともと、自分のほかに神概念を置くような思考をしていないということもあるし、そもそも環境と自分の境というものについて自覚的でないということもある。

 「垣根が曖昧である(あるいは、曖昧になる)」感は、このところの当方のテーマ。
 最近、柄にもなく、美、だの、なんだのについてあれこれ言っているが、この「美」というやつも、そのことに関連する。
 そういうことを五感でとらえる機会に恵まれているということもある。京都は宝庫ですよ。
 自分の感性を一般化することには慎重でなければならないが、「京都が宝庫」と自覚するいうことは、当然、何千、何万という先人が、何百年の時間をかけて洗練させてきた精髄に接してはっとする、ということだから、この「はっとする」感、当方が感応するということには、その何千、何万の先人の、言い換えると民族の感性を言語を介在させないで共有するということに他ならない(思っていることをライブで書き連ねると文体が吉田健一化するな)。
 
 美、とか究極とか、そういうこととまともに向き合ってしまう、というのは、僥倖といえるのかもしれない、この地にいることの。少なくとも、この国の伝統の底知れない凄さの気配に接することができたということは。

 エックハルトから始まって、またまた脱線してしまった。