図書館。
雑誌をいくつか手に取る。
細かい情報の断片から触発されて自分のなかに湧き上がるフラグメント。
これが、わずらわしい。
じゃあみなけりゃいいだろう、ということで、小雨の中チャリで戻ってこれを書いている。
おれのひとりごとも、何年か前までは、なんか、自分の中に浮かんだ断片を膨らませて、書いていた。
それ、今読むと、なんというか、けたたましいわけですよ。自分の書いたものが。
記憶とのつきあい、とか向き合い、とか、近頃ぼそぼそ言うのは、要するにそういうことです。
外界から守る技術は、すでにある。
次は裡なるノイズ発生装置をどうするか。
坂本龍一の連載がうるさいのも、同時代の目撃者としてあまりに自分を触発するからだ、というのは、気づいていた。
これからの時間、日々やっていく、というのは、要すれば、この自分のうちがわとつきあっていく、ということなので、気長にいくしかない。
自分も流す、というかんじ。
いま現にある雨のにおい、とか、空気、とか、そういうことどもだけ相手にする。
他人がどうでもいいのはわかったわかった。
次は自分だ。
自分のがらくただ。
文化教養、みたいのが、いちばんダメ、だ。
もっと正確にいうと、そのなんかそういうのの形骸、というか、外構というか、残骸というか、そういうの。
音楽も、虚空からつかみとる、みたいな感覚以外どうでもいいでしょ。
鳥の声聞いてりゃいいわけですよ。
おーしんつくもいなくなったし。
いまは、雨の香り、ひんやりした空気の流れ、午後の静かな時間、がある。
あと、これからモカ挽いて飲むし。
これでいいのだ。