昔お世話になった方の訃報が届いた。
70台の半ば。
ところで、ほっとする、みたいな気分になれるので、訃報は好きだ。
死んで残念な奴は、滅多にいない。
普通につきあっていたヒトでも。
もちろん、例によってどうでもいいので、どうでもいい、と流せばよいのだが、さすがに、生き死にですから、多少のさざ波は、たつようだ、おれなんかでも。
で、その感情の微小な励起が、ほっとする、というおれの語彙では、コトバになる。
肩の荷がおりる、といってもよいのだが、少し大仰だ。
そもそも別に負荷を受けていたわけではない。
が。
ヒトは、ちょっとそういうところがある。
そのヒトを知っている、あるいは、行き来があった、というだけで。
いま、そういうかんじ。
それもなんとかしたい、という。
だから、訃報は、これでこのヒトとはケリね、という意味で、うれしいお便り、朗報になる、特段障る事情がなくても。
一歩進んで、現に息しているヒトについても、それができないか。
自分のなかで。
おまえ、もういいよ、でてくるなよ、という。
もちろん、当方のあたまのなかのはなし、ね。
別に障る相手でなくても。
今回の訃報の方は、しかし、その類型ではなかった。
おれとしてはめずらしい。
しばし、懐かしい思いがした。