最近まで、この国の在来種の棲息する環境を「パチンコカントリー」と名付け、このブログでも採用していた。
いつのまにか、使わなくなったのは、書いていて、我ながらうんざりしたからであろう、考えたことないが。
まあ、そういうことですよ。
ヒトの勝手だ、というのが、ナニワのパチンコ屋に行列する奴やら堀江某やらホリエモンやらの理屈だが、もちろん勝手ではない。
殺人に間接的に加担する行為であり、公序良俗の問題である。
イタリアで同じことやったら火炎放射器で駆除されるらしいぞ。
それは本題ではない。ネットのチーチーパッパにまかせた。
パチンコカントリーの意味は、いまさらだが、要するにこういうことだ。
こいつら、だけじゃないが、こいつらを含めて、この地域で棲息する種を総称すると、まさに、パチンコカントリー、ということだ。
日本人を総称すること自体の危険がここで明らかになる。
おれ、パチンコ屋で行列しないよ、というのがおそらく多数を占める。
だが、日本人、と一括りにするからには、こいつらもはいる。結構な割合だと思う。
で、日本人が自分で自分にいうこと、交通ルールを守るだのおとうさんおかっさんを大切にしようだの戸締り用心だの火の用心だの、は、ほんとか、ということだ。
そもそも、これを言い出したのは、笹川さんとか、ですよ。
ドン、だよ。
おれはヒトをみる基準はひとつだけだ。
自分を引き受けているか。
これだけ。
自分を受容するには、時間も智慧もいる。
ただし、これがある程度熟すと、自分と環境の折り合いが劇的に改善する、というか、問題がそもそも蒸発する。
ひとりでいると、孤独だのなんだの青臭いこといって、小説だのなんだのブンガクと称するセンズリはみんなここからくる、あるいは、ここに帰着する。
そうではなく、独りでいる、ということは、おれの用語だと。
軽安
ということばになる。
仏教用語だ。
日々軽安なり。
在宅でキーキーする奴は、キーキーしてなさい。