隠者の条件で、道、数寄、閑居、といったのは、心敬さんだっただろうか。
道、は、ちょっと怪しい、六十翁のそれがしには。この言葉は手垢にまみれている、きちんと吟味しないといけない。
数寄、は、まあいい。
閑居。これは大事。
当方が考える条件は以下。
持続する時間
刺戟の遮断
ぼーっとすること
今の世の中でこれをやろうと思ったら、山籠もりではむりだ。かえって刺戟は増えると思う。
市中の山居こそのぞましい。
冒頭、「道」は怪しい、と言ったのは、時に、「ぼーっとすること」の邪魔をすることがあるから。
説教好きな奴に、「そもそも人の生きる道とは」とか水向けたら半日だよな、最低。好き勝手を。
なにわのなんちゃって教育勅語おやじも道元さんも、おれは一緒だと思う。
そう決めた。
余計なことは考えないでなるべくぼーっとしていなさい、というのが究極の教えだ、おれの。
ぼーっとするにはテクニックがあるのだが、それは言わない。そんなことこの落書き帳でいえませんよ。
いま、ほぼそれができる環境にある。
いちばんだいじなのは刺戟の遮断で、ネットなんかはチーチーパッパだから、蚊に刺されたようなもんだからどうでもいい。
刺戟の98%は他人との接触だ、何度もいうように。
不用意な、とつけくわえてもいい。
人とうまくやる究極の技は、およそ人と「やらない」ことだ。
目的語をつけないで「やる」とか「やらない」というと、この国の文法では「あれ」を示してしまうが、「あれ」ではありません、いや、「あれ」に限らず全部、およそ、人と「やる」可能性のある営為すべて、という意味だ、もちろん。
というわけで、外ではヘリが壁の一面ガラスを激しく振動させるは、バスはがんがん乗り付けるは、ミニパトはわめくは、多国籍言語は飛び交うは大騒ぎだが、主宰は閑居にて心を澄ます。