北の丸で食ってたらキジバト夫婦に遭遇。
キジバトに、そこはかとなく漂う品の良い夫婦、というかんじがどこからくるのかと、しばらく考えた。
群れないからだよ。
ドバトの醜さは、群れては、意味ないいざこざを延々しつづけることにあり。
キジバトが、二羽でおっとりやってることに鑑みれば、おそらく、ハトに、群生の必然性はない、生存する、ということにおいて。
ヒトもまた、同様なり。
昔はともかく、今は、単独行でも、全然楽ちんです。
ヒトが、潜在的に他の個体に悪さする蓋然性を秘めた生き物、であることを踏まえると、ドバト同様群生は弊害だらけだ、というべき。
役所の好きな言葉で「ふれあい」というのがある。
「ふれあい広場」は全国に3000万箇所ある、おれの推計で。
ところで、ふれあい、と聞くと、主宰はある事象を連想する。
サウナで、となりのおやじが、体吹いたりした拍子に、二の腕あたりが接触することがある。
その、ぬるっとした感じ。
書いていてその触感が蘇る。
とことん気持ち悪いぜ。
ふれあい、ってのは、これだよ。
では、「ふれあわない広場」ならよいか。
それは意味ない。
ふれあわないなら、もともと公共スペースを用意することはない。
みな、てんでに好きなところですきなことをやればよい。
あたりまえ。
ところが、これが、あるんですね、実際。
ふれあわないために集まる広場が。
スタバは、おれはそういう空間だと思う。
互いが互いを拒絶するためにわざわざやってくる。
ばかじゃないの。
というわけで、本日も、主宰は、北の丸の清冽な大気のなかキジバトと親しみ、時間の移ろいにひたるのでした。
金曜までヒトと交渉用事なく、オフなり。