社会のおれとの関わりは以下だ。
おれが100円いれたときだけ反応する。
それで、うまくいっている。
100円いれたとき「だけ」ジュースがでる、にもかかわらず、ではなく、100円いれたらジュースがでる、故に、うまくいってる。
普通、この種の設問の立て方は。
個人が、社会だの世間だのとやりとりする、コミュする、と、主語が、主体が個で、個がヒト集団にはたらきかかける、という体裁をとる。
おれは、世間だのなんだのに、ちょっかいださない。
ホールドアップされたときだけ仕方なく、やる。
コミュしないと撃つぞ、とか、5憶する。ぞ、とかいわれたら、そりゃ。
その場合でも、刷毛ではくように、息をふきかけるように、表面だけの微細なやりとりを心がける。
それであるので、日々、概ね、ふわふわ、うきうき、やってる、やれてるのです。
だから、社会とおれ、は、通常は、おれが働きかけないので、日常は、あっちが、なんか言ってくる、ということに終始する。
世間がおれにちょっかいだす。
だからそれは、とことん、徹底的に、はやりことばでいうと、スルーするのよ。
社会は、おれが100円いれるときだけ存在するので、それ以外は、存在しません。
引きこもりだの、クズは駆除すべきか、だのの最近の議論の、これが主宰の回答。
以上。