内心の自由について。
とざい東西。
ちょっとこのところ口先、小手先っぽい記述が続いているので、今回は。
今回も、にならないように、30分でどこまでいけるかお立合い。
例によって、いま頭の中にあるポイントを。
◆内心の自由とおれさまの現在
◆苦節N年の道のり
◆海の向こうで抑圧がはじまる
のらりくらりやってきていつのまにか暦も振り出しにもどってしまった。
いまがいちばんいい、のは、間違いなく自分のうちがわが自由であることと呼応する。
ほとんど無重力状態。体という容れものがなかったら、空中浮遊してます、きっと。
じゃあ、いままではそうでもなかったのか。
いや、いままでも、結構好き勝手やってました。
少し身の上話をすると。
旦那のそぶりから、この先を察し、おれのほうから旦那に見切りをつけたのは40の声をきくころだ。
年に二度ほど、これだけ払うからこれをやれよ、という旦那とのやりとりがある。
だいたい、内部のおしごと、手足無し、上司のちょっかいも基本なし、という処遇だったので、自分ひとりでなんか頓智を出すというのが、おれの、その、ゴーン流にいうとコミットメントだった。
それをはいはい、と聞いて、おれがなにをやっていたかというと、ある日せっせと、当時始めた副業、ではないなすでに、本業である地べた関連、およびその他の、たとえばいまこのブログに書き連ねているようなことどもを頭にうかべてあーでもないこーでもないする、ノラ稼ぎしてました。
だから、内心の自由は、ほぼ確保されていた、という受け身の言い方は正しくない、組織に外観占領された自分をとりかえし、見事に独立を勝ち取ったのであった。能動だ。少し技術も要した。そば屋の出前にも通ずる。
要すればさぼってたのね。
旦那はトロいから、そんなこと全然わかんないのさ。
いかん、どうでもいいことに逸れるおれのわるいくせだ。
あと10分。
いまが当時と違うのは、身柄も取り返した、ということぐらい。
だから、昼間からバカなことをあーでもないこーでもないすることにかけて、おれは筋金いりだ。
なんでも好きなことが24時間365日できるようになって5年経過し、なにをやっているか、というと、こうしてばかなことを思いめぐらしている。
やりたいことをやる、ということではない。これは能動的ではない。
「めんどくさい」、「どうでもいい」で毎日やっていたら自然にこうなった。
消去法か。それすら自覚していない。
要すれば、ぼーっとして心に浮かぶよしなしごととつきあうのが、好きで好きでたまらないのですね。おそらく。おれさまは。
ということに気づかざるを得ない。
これを「内心の自由」という。
これだけ確保できれば、あとはどうでもいいや。
なんか、海の向こうでは15億人を24時間言動捕捉して通信簿つけるんですってね。
地獄だろうね。
はい30分。
三番目の「今後」が尻つぼみになりました。
「1984年」が具現化しつつある現在、我々は世界とどう向き合うか、この先は池上さんあたりに講釈してもらおう。
本件は、さすがのおれも「どうでもいい」とはいってられない。
対岸の火事でもなさそうだ。
前半の話は、こんどまたふくらませるかも。