さぼりすぎて死んだ奴はいない。
イタリアあたりが由来の格言、ときく。
仕事のしすぎでくたばる奴はいるが、さぼりすぎてあの世行き、はない。
この金言をもって、イタリアは文明国、と知れる。
ところで、このところ、自分の近い過去に言及する機会がある。
組織のとヒト、とか、分断の基軸に関して、我が身を省みていう、みたいな文脈だ。
あまり自分語りは、できればやりたくないので、おおざっぱに言ってはいるが。
で、さぼった、と。おれは9時5時、サボってました、と。
これを書いたとき、待てよ、と思った、実は。
さぼった、と過去形で書いたが、今はどうか。
日常については、よく書くが、たいてい、私の用語法だと、「ぼーっとする」と言ってます。
「ぼーっとする」は啓発舎ブログの頻出語だ。
ぼーっとするは、主観的なことばで、傍からみると、それは、まさしく「さぼってるんじゃないのあんた」ということに他ならないのではないか、という問いかけ。
これが生じた。
よろしい、さぼってる、と。私は。いまも。
ところで、ただ「さぼってる」と言われても、少しすわりが悪いのは、さぼる、ということばは、単独ではうまく機能しないところがあるのではないか。
仲間を、対象を求める、ことばではないか。
要すれば。
「なにを」さぼってるのか。
さぼる対象がないと、さぼる、という行為が、明確な輪郭をもてないで、なんだか曖昧になってしまうのでは。
そこで、私は、一体、なにをさぼってるのか、という新たな疑問に逢着する。
これは新鮮だ。我ながら。
おれ、なにをさぼってんだろう。
身過ぎ世過ぎ関係は、実は、やっている。さぼってない。ただ、要する時間が、日常の時間の流れに影響しない。誤差レベル。飯食う時間よりもちろん短い、歯みがきよりは少し長い、程度。
再び。
なにをさぼってるのか。
実は答えはでている。
ヒト、をさぼっているのだった。
ヒトでいることを、さぼっている、あるいは放棄している。
「日本人」であることから降りている、のは、くどいからこの稿では省く。
貴様それでも日本人かと問われれば、こないだ降りました、とこたえよう。
進んで、ヒトも、もうそろそろ潮時ではないか。
この世をおさらばする、という意味ではない。
生き物、としてはやっていく。
ヒトは勘弁。ヒトとのあれこれは。
という日常が、既に始まって久しいのではないか。
という気づき、であります。
ヒトでなし、の日常。ともいえる。
かくして、吾輩は生き物として完成した。