人とひととのやりとりは、完全にAI代替できる、ということについて。
おかげさまで相変わらずぼーっとしている。
世間様をほぼ排除できているからだ。
人とひとのなんだかんだが減ると、逆に、それが浮かび上がる。
勝手に浮かび上がるので、なんか、反芻してしまったりする。
そうすると、やりとりしているときは、きわめて「人間的」でうんざりすることも、距離をおくと、まるで機械的、ということがわかる。
アルゴリズムで、ほぼ解明できる、と思う。
そのときそのときに判断しなければいけない事柄、情報処理を必要とすること、選択肢、選ぶ、打ち返す、のやりとりが煩雑なだけで、要するに機械的。
だからめんどくさい。
ということが、心底わかる。
わかればこっちのもんで、わずらわしいだけだからやらなければいい。
或は、まさしく機械的に処理すればいい。
「これください」
「250円です」
無言で払う
「ありがとございますまたおこしください」
のやりとりの変奏だから。
「人間性」云々は、全部機械的。
「人間性」ということばを、およそ人と人に関わることについての感じ方働きかけ方に関わるあり方、と今定義すると、人間性は機械的。
人とカエルとか人と青い空白い雲の関係のほうか、よほど、人間的だということがたちどころにわかる。
ぼーっとする、というのほ要するに五感のセンサーになるということです。
対象なく、主観だけ、ということです。
そのうち、主観もなくなる、というか、「私」が、どっかにいっちゃう、ということです。
そのぎりぎりのところが、自分、というのが虚妄でなく、なにか実在に関わる存在があるとすてば、自分、という体感であります。
これは、なかなかAIにはできない気がする。
だから、おれの日常は、えらい人間的です。
なんか、ぼーっとするのも全身全霊ですよ、こうなると。
この話、続く、かもしれない。