記憶について
午後、いつものようにリビングで空をながめている。
記憶の断片が去来、というのはちょっとちがうな、湧き上がる、という運動エネルギーもない、浮かぶ、というのでもない、花火大会で大輪のやつの合間につなぎで打ちあがる花火みたいな、かんじで意識化する。
ほとんどヒトがらみだ。
ところで、私の日常は、ほとんど、というより、まったくヒトと関係しない。
正確にいうと、そりゃやりとりはありますよ、ありますけど、えーと、ここから先です、このアクリル板から。
じゃ、なにと関わっているか。
青い空白い雲です、千回言ってるように。
現にいま、青い空白い雲、は、ないか、雲一つない蒼穹。
この、そうだな、6年ぐらいは、そういう日常なので、3年前どんなことしてたかな、というとき、真っ先に浮かぶのは青い空白い雲冬木立の梢、であるのが、正しい。
だが、青い空白い雲は、記憶の花火のラインナップには全くでてこない。
これおかしいじゃないですか責任者出てこい、といいたい。
ヒトの生存はヒトとの交渉にかかるしたがってヒトのメモリーはヒトヒトヒトで埋め尽くされ、青い空のはいるすきはない、というのが、おそらく正しい解であろう、おれが勝手に思いついただけだが。
仕方ない。古来、そうプログラミングされているのなら。
だけど、今日日、とくに、今回の騒ぎで加速すると思うが、ヒトと関わらないでも全然OKじゃん。
おれが日々検証しているように。
であれば、記憶を開放できないか。
ヒトがらみを全部抹消、delete、までする必要はないが、少なくとも、勝手に浮かび上がる消化試合の花火みたいな想念からは取り除けないか。
googleあたり、本気で取り組んでくれないだろうか。
久しぶりに、ほんとにひさしぶりに、午後の時空。