啓発舎

マジすか? マジすよ

N響
第1890回 定期公演 Bプログラム
カバレフスキー/チェロ協奏曲 第2番 ハ短調 作品77(1964)
チャイコフスキー交響曲 第5番 ホ短調 作品64
指揮:尾高忠明
チェロ:マリオ・ブルネロ

例によってビール、ワインなので簡潔に。

今夜はブルネロに尽きる。
チェロと一体化するブルネロを見ているうちに、かつてどこかでこの姿を目の当たりにしたぞ、というデジャヴュ感が私をとらえる。
と、演奏も最後のほうになって、そうだ、テルモピレーで最後の戰に臨むレオニダスだ、と突然気づいた。



それぐらい、おれ自身実際に見たかどうか怪しい、ハハ、ギリシャの戦場を思い浮かべるぐらい、の気迫。


曲は、もちろん初めて聴く。
いきなりピチカート。しかも永遠に、と思えるぐらいこれが続く。
ブルネロほどの名手でも、ピチカートは、特に高音弦のは、ぺしょ、ぺしょ、となるのはやむを得ない。
で、それがようやくやむと、今度はアルペジオ大会。
それに飽きると、というわけでもないだろうが、次に続くのは、白玉音符、というのは、テヌートで音を伸ばしまくる、という意味です、の連続技。以後、その3パターンのとっかえひっかえ。

というかんじの、ソビエト社会主義リアリズムスタイルの楽曲でした。
猪木みたいなストロングスタイルでは、さらにない。
こういう、そんじゃそこらが弾いたら冷蔵庫で3年ぶりに発見されたしいたけ、みたいになる曲が、ブルネロの手にかかると、どんこのまったりした味わいがよみがえる。


おそらく演奏が楽曲を超える、という稀有のことが今夜、出来した。


と、かましてみたくなるぐらい。


いずれテレビでやるから、詳しくは、みてもらえばよいのであそこがどうだこうだは、今回は言わない。

今夜は、曲がどうのオーケストラがこうの、という演奏レベルでなく、つくづく、コンサートで、その場に居合わせる至福ということについて考えさせられた。

演奏家が表現する意思は、実際に楽器をあやつって出す音にのみ託されるとは限らない。
今夜のブルネロのように、赤鬼となって、体全体で、毛穴も総動員して、アルペジオを弾きまくることで、高音域で移弦しまくることで、時空間が一変する、ということが、現実に今夜起こった、少なくとも私には。


まあ、一言でいうと、かっこよかったです。


あと、言い忘れてはならないのが、低音弦の暖かさ。
チェロの下二本をG線C線といいますが、その半分より高いポジションを押さえると、どうしても、ごり、とか、ぎろ、みたいなこれをアタックというのですが、出だしの発音があるのです。構造上。
これがブルネロは、軽やか、やわらかい、のびる。
それを惜しげもなく披露してました、曲がそういう、ハイポジションの移弦の練習曲みたいだから、出し惜しみしようがない、ということもあるが。


ロストロなんか、別に楽器はチェロじゃなくてもいいじゃん、とおれは思う。
実際、かあちゃんの伴奏とかでロストロはピアノも達者だ。
ヨーヨーマは二胡でいい。あるいは雑技団の曲芸師。


だが、ブルネロは、チェロですね。この楽器の申し子です。
テクとか、そういう話ではない。
チェロから「音楽」を引き出す、チェロでなければならない、という必然性をこれほど否応なく感じさせられることは、滅多にない。
前世紀、じゃない、全盛期のマイスキーぐらいか、いま思いつくのは。

ちょっと、今夜は支離滅裂ですか。

たまにはいいでしょう。
毎回か。