N響第1898回定期▽イタリア出身の指揮者ジャナンドレア・ノセダが登場
▽1.「リュートのための古風な舞曲とアリア」第1組曲~レスピーギ、2.チェロ協奏曲第1番~ハイドン、3.交響的舞曲~ラフマニノフ▽管弦楽=NHK交響楽団、指揮=ジャナンドレア・ノセダ、チェロ=ナレク・アフナジャリャン
出演
管弦楽…NHK交響楽団,指揮…ジャナンドレア・ノセダ,チェロ…ナレク・アフナジャリャン,ピアノ…ニコライ・ルガンスキー,
この演奏会は、ホールにいた。このブログに当日評も書いた。
一行だけを引用する。
「オーボエが、やわらかく音を紡ぐと、月並みだが、砂漠にオアシスが現前する。」
レスピーギです。
今夜の放送ではどうだったでしょうか。
◆空間は再現できない。
◆楽器あるいは楽器群ごとに集音すると、本来の響きは失われる。
とりあえず思いついたのが上掲、他にもあるかもしれないが、それらの理由により残念ながら「オアシスは現出」しない。
最近、おれの演奏会評が手抜きなのは、もう、ヒトに伝える動機がなくなってる、ということもある。いちばんは、もちろん、めんどくさい、というおれの属性の根幹に属することであるのだが。
楽曲も演奏もどうでもいい。
ある刹那、どういう響きが時空間、おれの存在も含む、を満たすか。
だけなので、曲がどうの、指揮者がこうのと能書きたれる必要が、ほとんどない。
お能もそういうところがある。
お囃子がどうの、舞いがこうの、ではなく、おかめのお面をかぶっているおじさんの外観が、一瞬、空間を領する、つーんですか、おそらくおかめ面の、くどいな、じいさんにも自覚がない、と思う、そういう刹那を、こっちが勝手に体感する、ということに、結局、つきる、お能に、敢えて言う、参加することの愉しみは。
一筆書きで書いた。