◆「バンド、やめようぜ」
今日、東京堂の平積みで、思わず笑ったタイトル。
バンドやろうぜ、の数だけ、バンドやめようぜ、がある。
当たり前の話だが。
バンドマンは身につまされる。
その昔、バンドマンであることが生活のすべてだった時期がおれにもあった。
学業その他は、完全に放擲していた。親も諦めていた。
いくつかの離合集散があって、電気を通す式、通さない今でいうアンプラグド、だのを行ったり来たりし、結局足を洗うことになった。
そのいきさつは、書き物にしようと思えばできるかもしれない。
電気を通すほうは、5年前に復活した、通さない方、70年代初頭ウエストコーストは、来年再現するかもしれない。
当時の、あの空気は、しかし、封印だ。
◆詐欺師で何が悪い
NHKBSの番宣スポットで龍馬役がほざく。
詐欺師は、悪いに決まってるだろ。
10年以下の懲役だ
◆伊丹十三のエッセイ集
これも東京堂の平積み。
出版されていなかったやつ、拾遺。
モノンクルなんて、懐かしいね。
心理学とかに凝り始めたころから、おれはこの人の書くものから距離をおくようになった。
ドグマに固執する上から目線。
この人を読む以上、説教癖は芸風だから受け入れるしかないが、事象を切り取る面白精神があってのはなしだ。
「小説より奇なり」表紙の「小生の興味は人事の滑稽と悲惨のみにあるデス」という文句は、その後、おれのモットーのひとつになり、今日この時点まで、おれの旗印の筆頭だ。
一日五回人生訓をいれかえる当方にして、これは、稀有のことである。
かつておいらのアイドルだった伊丹先生はしかしその興味を「滑稽と悲惨」から、いつのまにか、「人事の根源を解き明かす」みたいな方向にかえていき、全然面白くなくなった。
映画なんか、おれの見た限りは全部カスだ。
「滑稽と悲惨」精神を最後まで持ち合わせた物書きは内田百�瑶ぐらいしか思いつかない。
が、百�瑶先生にして、阿房列車なんかは、自分のギャグに自分で含み笑いしているみたいな手つきが、たまに鼻につくところがあった。
滑稽と悲惨のみをひたすら追求する、というのは、なかなか大変なんだね。