啓発舎

マジすか? マジすよ

きのう「ショーシャンクの空に」をみた。NHKBS。
二度目だが、いいものはいい。
感想は、一度目とかわらない。
モーガンフリーマンの男ぶりをみる、これは映画です。


諦念、という概念を映像化すると、この映画のモーガンフリーマンになる。
セブンでも、そういうところがあった。
モーガンフリーマンが、引いて、抑制して、静かさを底流させることで、ブラピもティムロビンスものびのびやれる、という構図。


この国でだれか、いるか。
過去を背負って、諦念に生きる、男の中の男、といえば健さんだが、おれに言わせれば、似て非なるものですね。
一山いくらの安手の感傷しか、おれはかんじない。
それを戯画化というレベルまでさらに小汚くしたのが北野さんです。

たぶん健さん、と吉永さんは、いまでも「国民的」だとすると、おれは、あまり「国民的」な感性の持ち主とは、このことからも、いえない。


で、話は、日本シリーズ終戦にとぶ。
プロ野球はまず見ない。
が、さすがに、どんづまりだし、ということで、チャンネルをあわせたのでした。
ちょうど同点になるあたりで試合の流れは面白くなってきたところだったが、ほどなく消した。


例のチーチーパッパも、音を小さくして我慢していたのだが、試合の盛り上がりにもかかわらず、テレビを消す判断を余儀なくされる出来事があった。

相手打者三振。
と、鉦やら太鼓やらのお囃子が
トントトトントン・とんとん。

いまだに、これをやってるんだ。


いま、たとえば、街中でこのリズムでクラクションを鳴らせるおやじは、さうがに、そうはいないだろう。
羞恥心に抵触する。
警告というきついサインをユーモアでなごませる、というかつて確かに一般的であったおやじ感性は、さすがにいまではこっぱずかしい、という良識にとってかわられたのではないか、と思う。
どうでせうか。


それが、こんなところに生き延びているんですね。


相手の失敗を揶揄するのはいかが、と道学者みたいなことを言いたいのではない。


たぶん、観客一人一人は、たとえば路上で、とんとととんとん・とんとん、やるのは躊躇するでしょう、たぶん。
さすがに。いいとししてこっぱずかしい、と。

出来の悪いコントの落ちでもあるまいし。
30年前だったらいざしらず。


数を恃むとそれができるのですね。


集団になると。


おれは、日本人、というくくりの象徴的な絵だと、これは、おもう。

日本人というのは、集団になると、とんとととんとん・とんとんをやることも辞さない国民だと。


このニ三日の報道に接した、これが感想。
ヘリのばたばたもおまわりの佃煮もやり過ごせるが、メディアの鉦太鼓の小汚さは辟易だ。


今回のどたばたについては、これでおしまい。