連休最終日でもあることから、今回は、面白、について哲学したい。
きのうだかおとといだか、黒田、といっても日銀おやじではない、をやっつけていてついでに女性一般について勇み足があったような気が自分でもするので念のため言うが、おれがどのくらい女のひとを尊敬しているか、というと、最近面白い、と感じるのは女性が多いことからも明らかだ。
書き手とか、な。
面白に不可欠なのは客観性とゆるさだ。この両者をともに具備する奴は、そうはいない。
あと、天性、もあるね。
従来女性で面白が少なかったのは、たぶん客観性だと思う。
自分をつきはなせるか、笑えるか。
清水ミチコになれるか。
今思いついたのは、無邪気というのもある。
たとえば谷岡ヤスジ画伯だが、この人の場合は、無邪気というよりも侠気じゃない、キョウキをはらんでいて、なかなkスリリングだ。
おれは、ブラピにそれを感じるね役者では。
蛭子さんなんかも油断できない。
山上たつひこの全盛期、ガキデカの少し前ね、にもそれがあった。
客観性と無邪気は衝突するような気もするが、山上たつひこの新選組とか、谷岡画伯の清水一家とかには、つきはなした客観的な視点でありながら、それぞれの登場人物が、ブラピのように無邪気である、という奇跡的な時空間を現出しているのである、哲学だからボキボキ書くが。
さっきスタバでせろにあすさんとコルトレーンのカーネギーホールライヴをまるまる聴いていた。
せろにあすさんはもちろん面白の極北に位置するが、コルトレーンはまじめ一筋だ。
コルトレーンが散々極左の新聞記者がアジってるみたいなソロをやりつくすと、モンクじいさんが、日向ぼっこみたいにそれを受ける。
こういうのを聴くと、君子なおもて面白を考察する、況や豚児をや、面白いとはいったいどういうことだろう、と人は哲学せずにはいられない。
どんどん飛ぶが、コルトレーンが後年ああなったのは、面白の欠如というところが与って力あったと思うのは私だけか。
残念、昼寝の時間だ。