北の丸散歩。
鮮やかな空間の美しさ。少し戸惑うぐらい。
長くなるかもしれない。
樹々も池も、そっくり入れ替わったわけではないので、天気も、うす曇りで、格別いつもとかわらない。
その日その日で印象が違うのは、もちろん、当方の環境による。
私という外部環境にもっぱら起因する。
ところで、今日は私の体調なり気分なりが特によいか、ご機嫌うるわしいか、というと、そんな自覚はなかった。
起き抜けの2時間ぐらいは、雑多な想念が勝手に浮かんでは消え、たまたま関わりあってしまうと、そうだあのときああでこうで、と、たいていは、あまり愉快ではない気分が自分を覆ったりする。
今日も、実は、そんなかんじだった。
だから、どういうときに、当方をとりまく時空間が今日みたいになるか、全然予想がつかない。
樹々も、木漏れ日も、ほの暗い緑の奥行きも、垣間見える雲の流れも、時空間そのものが、必然、としてそこにある。
で、よたよた自転車こいで帰ってソファで雲眺めている今も、その感覚は残る、底流する。
午後の時間が流れる。
静謐、という言葉が一番しっくりくるのだが、敢えて、この気分が底流する日々を送る日常を言うと。
毎日が祝祭
お祭り、というかんじであったりもする。
お神輿わっしょいもお祭りだ。3年ごとにおれもやってる、氏子として。
でも、そういうにぎやかなのではなく、すべてが鎮まる、というお祭りもあるのです。
毎日やっていく、生きている、ということはこれで必要十分だ。
とりあえず、ここまでこぎつけたよ、この先どうなるかわからないが。