啓発舎

マジすか? マジすよ

テレビでN響パーヴォのショスタコ7番を見ながら思った。
 必須アミノ酸のように、生きていくうえで、どうしても必要な音楽とそうでない音楽。
 ショスタコおよびパーヴォに否定的なことをいうのが目的ではない、予め言っておくと。
 テレビでみる限り、ショスタコはパーヴォと相性がよいようだ。ファゴットのソロをはじめ、息の長いソロを少数の楽器で支える、オーケストラの統率力をためすような箇所が、この曲は多いのだが、緊張感をもってよくまとめていた。
ちちんぷいぷいの箇所は、反スタ、ファシズムとか後付けの解釈がいろいろある。以前パーヴォショスタコの5番をやったとき、インタヴューで、自身の反スタ観を吐露してもいたが、今日みた指揮ぶりは、パーヴォ自身に、生来独裁者の資質があって、そこが、ショスタコと響き合う、という直観を得た。
イデオロギー、イズムではなく、生理としての体質。この種の曲に血が騒ぐ、という。
マーラー6番冒頭だってそうだ。
パーヴォが振るとN響が軍楽隊になる、という当方の印象に、今夜裏付けができた。

というのは寄り道。


本題は、必要な音楽とそうでない音楽。
もちろん人の感受性はさまざまだから、あくまで私にとって。
私にとって、ショスタコは、ないと欠乏症になる、という類の音楽ではなさそうだ。
優れた音楽であることは間違いない。
ライブ映えもする。
N響でも、スラットキンと何年かまえにやったのはよかった。
だけど、自分で自発的に、ショスタコ聴くことは、事実として、ない。

思うのは、それは、おいらの人生が概ねお気楽だったからか。


音楽で殺伐を受け取る必要はない、ということか。


ほっとくと、どうしても手がのびる音楽、と、そうでない音楽。そして、それは何故なのか。
そんなことを考える契機に、今夜のテレビは、なった。
自分のことなのですぐ結論を出す必要はない。ちょっと考えてみます。