N響第1911回 定期公演 Bプログラム
ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77
ヴァインベルク/交響曲 第12番 作品114「ショスタコーヴィチの思い出に」(1976)
指揮:下野竜也
ヴァイオリン:ワディム・グルズマン
まず、指揮者を褒める。
長尺、凝った造りをよく振り分けた。
次。団員のみなさん、ごくろうさん。この曲で、これだけ抜けの良い響きを実現するの演奏技術は、特に最近、とくに木管、舌を巻きます。
というわけで、今夜はビールビールでガソリンは控えめだが、満足極めて高し。
ヴァインベルクは、初めて聴く。1976年というから最近の作品だ。
ショスタコの思い出に という副題から、当然、師匠の影響を全面にだしている。
実際、木琴、チェレスタ大活躍、弦は、きこきこやるし、ショスタコ節満載なのだが、どうしても素質の違いがでる。
優劣ではない。
タコを聞くと、おれが必ず感じる、なんだろう、痛痒い、とでもいうか、とことん救われない、というか、白昼ぽっかり空いた虚無の穴、というか、そういうのが、全然ない。
清浄。きよらか。
木管、金管、弦、と楽器群を鳴らすのがお好きとみた、初回なので、まだ断定はできないが。
たとえばフルートとオーボエの半音ずらした笙のような響き、それに重なる木管群のさらさらした響き。
全奏でも、それぞれの楽器群がきらきら響き、それとわかる。もちろん、溶け込んだオーケストラサウンドもある。
達意のオーケストレーションか、指揮者の力量か。
ここで、指揮者に。
この人を生で聴くのは初めてだと思うが、端倪すべからざる仁だ。
わかりやすい棒。振り分けも見事だから、後ろ姿を見ていると、楽曲の縦の構造がよくわかる。
強奏しても全然混濁しないのは、指揮者か作曲家かN響の演奏技術か。
あと、誠実というか、音楽以外の混じり気、ギミックが、ないです。
棒は、音楽のみに従事。
なんか、N響でこれだけ褒めるのは、ひさしぶり、という気がする。
ので。
啓発舎節も披露しないと、な。
前半タコのVnは、全体を通して、営業ひとつこなしました、ギャラはとっぱらいでいただきたい、という印象の独奏者。
カデンツァだけ、少し気合いいれときましたから、と。
昔、博多のブルーノートにジョーサンプルがスティーヴガッドをつれてきたのに行ったことがある。
NYのブルーノートで出るためには、契約条件で極東ドサ廻りつきなので、青山九州と巡業するのですね。
しかも、ジョーサンプルがメインだから、クルセイダー節の、例の、ンカンカ、コンコン、のビートをチンタラ刻むだけで、ラモス瑠偉似の面相じゃなかったらガッドとはとても思えない。
で、そのまま終わるか、とおもいきや、最後に、突然鬼の形相でドラムソロ5分、でほんとにおしまい。
客先の百貨店が博多ブルーノートの旦那だったので、関係者のカオでチャージはロハだから、別に文句はなかった、なるほどプロとはこういうものか、と妙に納得した。
これを思い出した。
で、今夜も納得。
タコの一番は、テレビだがミドリの凄絶な演奏が印象にある。
あと、なくなったプレヴィンが連れてきた女流も、これはホールで聴いたが、熱血だった。
この曲は、技術だけじゃダメ、己の表現意思をぶちまけないと、成立しない。
ドロドロ情念パワーは女流に有利か。
今夜のおじさんも得意曲らしい。それなりにやってたのかもしれないが、ステージングは、スタンダップコメディアン。チンタラやってるようにみえてしまう。
見かけもだいじだ。
と最後に憎まれ口。