啓発舎

マジすか? マジすよ

ひさしぶりの青い空白い雲だ。
居間でぼーっとしています。


まあだかい、をみる。


人間というものは、わかりあえない。
という目下のおれのテーマを映像化すると、これだ。


内田百輭を、これだけ誤解できるのはすごい。
理想の老境、ということなのだろう。クロサワの百輭に対するおもいは。


この映画が語っているのはクロサワという人物だ。

私はクロサワの勤勉な鑑賞者ではない。
みてない映画も結構ある。
七人の侍は面白いし宮口精二は日本一の剣豪だが、みんなが面白いと思うように私も面白いということに過ぎない。


ヒッチコックを追いかけたように、ビスコンティをみまくったように、キューブリックのまねをしたようにはクロサワという監督についていかなかった。
肌合い、だと思う。


それが今日、わかった。
この人は、ストレートな人だ、屈折がない。
1たす1は2。

おれは実は百輭にも用心するところがあって、全面的ではない、師匠の漱石には垣根ないが。
百輭の晩年は、その作品は、自分の模倣だった。
ノラや、なんててなぐさみです。
阿呆列車は、作者の含み笑いがきこえる、鼻につく。
だがしかし、はじめのころのいくつかの随筆集は、神品だ。


存在の不確かさ、居心地の悪さ、という、気配、五感でいうと触感がいちばん親しい感覚、であるような、コトバになじまない時空間をどこまで文字に定着できるか、という行のような作品群。



人格複雑骨折のおやじを、ヴェルサイユ宮殿大庭園のような退屈な幾何学模様の認識構造をもつじじいが憧れる。


そりゃ無理ってもんだ。


人格複雑骨折というのは、たまにおれが自分に対してつかうフレーズなので、こんなこと書くと、百輭は、おれかよ、というはなはだ物騒なはなしになってくるが、もちろん、そんなことはない。


ただ、淫する、とか、やむにやまれず、とか、どうしてもこうなっちゃうんだよねえ、という最終的にはそんな自分を肯定するしかない、業、だか、さが、だか、のようなもやもやしたものは、とても他人とは思えない、というところが、実は、すこし、ある。

それも「誤解」か。
クロサワが自らの老境のありたかった姿を百輭にむりやり投影したように。


自分を引き受けてやっていくだけです。