啓発舎

マジすか? マジすよ

こんなメールがきた。
抜粋

<前略>
楽章間の拍手について:
 2015年ザルツブルクで●▲◇が★◎×のチャイコフスキーヴァイオリン協奏曲の第一楽章が終わった時に拍手が起こりました。その時感じた雰囲気は”こんな有名曲を本場の祝祭大劇場で演奏しているのに何だ?”というのと”今日は無知なアメリカ人(他の国含め)がたくさん居るんだろう、やれやれ”の二つでした。
<後略>

当方の返事。これは全文

ご連絡ありがとうございます。
音楽に関わる人には、作る人、演奏する人、感受できる人、読む人或は蘊蓄の人、の四つの類型があると思います。
前者三類型の方とは疎通できるのですが、いかんせん稀少で、それだけに、巡り合えた中学の頃の仲間と、いまでも作り演奏し感受し楽しむ機会があるのはありがたいことです。
最後の類型の方、音楽を「読む」というのはおかしな言い回しですが、音楽に接してはいるが真に享受できず、それにもかかわらず、というか、むしろそうであるがゆえに知識は詳しく雄弁に語る方、という意味です。大勢いらっしゃいますよね、悲しいかな当方「無知」のためどうも苦手で、幸い、そういう方は一言二言のやりとりで察知できるので、たまにあるニアミスは分不相応とご交誼をご遠慮申し上げることで回避し、なんとか平和に暮らしております。


ところで話は全くかわり今回の件です。
音楽とはさんざん遊んできましたが、自分でやるのでも聴くのでも、いい音楽かそうでないか、楽しめるかそうでないかしかなく、知らなくてもいま聴いたらいい音楽だ、知っちゃあいるが「有名」だろうとなんだろうとイモはイモ、という判断の基軸しかないことを、まず告白します。
音楽を聴く人を「無知」かどうかで区別したり、楽曲の良否を「有名」かどうかで判断する高尚な考え方に馴染めず、ある楽曲が「有名曲」であるかまるで「無知」な私に今後送っていただく資格はないようです。



拍手について最後に一言。
ザルツブルクの「アメリカ人」は、「無知」かもしれませんが音楽を「感受」できる人だったのではないでしょうか。1楽章のずんちゃちゃ節に熱血するのは当方だけでない、と安心しました。
一方、奏者の立場からは、チャイコンは私もやりましたが、伴奏していると、正直2楽章以下はかったるく、サンタナのギターのほうがほうが数倍泣けるぜと思ったりするので、もう終わろうよ、という意味では、一楽章の拍手は不快に思わないどころか大いに共感できます、ハハハ。
そういえば、チャイ5終楽章でも勘違い拍手がたまにありますが、わたしゃあのダメ押しコーダは常々イモ、失礼、「やれやれ」と思うので、今度そこで拍手が起きたら、ここで終わればみっけもん、と、趣旨は真逆ですが便乗してみようかしら。


前はもっとキザ夫の内容だったので、今回よりずっと辛辣に返したのだが、懲りずにまたよこしてくる。
昔仕事の関係で知っている程度、大学は同じのようだが、地方のご出身。なにかの拍子に音楽の話をつい口走ったら、振り払っても振り払ってもちょっかいを出してくるようになった。そのあたりの動作も、いなかっぺの尊称に値する。
今回の返事も当初案はもっと過激だったのだが、一晩寝かせてずいぶんとげを抜いたのだよ、これでも。
いずれにしろ全然効かないでしょう。


クラシックで能書き垂れる奴の9割は、この人種だ。
いい音楽かそうでないかではない。有名かそうでないか、知ってるか「無知」かが肝心だ。
こいつらは私なんかの手に負えません。保健所に任せたい。最近野良犬がいないようなので、ちょうどよい腕慣らしになるだろう。