第1869回 定期公演 Bプログラム
2017年10月25日(水)
サントリーホール
曲目一部変更のお知らせ(2017年10月定期公演Bプログラム)
10月25日(水)26日(木)の定期公演で弾き振りを予定しておりましたクリストフ・エッシェンバッハ氏の左手指の不調により、プログラム前半の曲目を下記の通り変更させていただきます。
何卒ご了承いただきますようお願い申しあげます。
ブラームス/交響曲 第4番 ホ短調 作品98
ブラームス/交響曲 第1番 ハ短調 作品68
というわけでありました。
今夜は、頭の中に浮かぶことが多すぎて、とても全部文字にできない。
ビールビールワインだ、いつものことだが。
備忘録もたいになる。
至福の時でした。
最初のビールは休憩時にモルツ小瓶、二番目は、六本木一丁目でジョッキ生、ワインは自宅であったが、これが悉くうまいぞ。
それほど良かったかというと、ちょっと待った、それをこれから。
なるべくおおづかみから。細部はあとで。
◆今夜のだしものは、正確には、公表されたブラ4ブラ1ではなく、それをヴァイオリン協奏曲に編曲したものだった、事務局にかわってお詫びして訂正します、編曲、独奏は、ともにライナー・キュッヒルによる、といいたくなるぐらいキュッヒルおじさんの独擅場。
◆ブラ4出だしの、独奏ヴァイオリンの、シ〜〜〜ソ、ミドの音色に、まず度肝を抜かれた。
通常ここは1stVnのトゥッティなのだが、今夜は、それを従えて独奏者が、すすり泣く。
すすり泣くがむせび泣かない。サンタナにはならない。お品がある。
いや、サンタナがお下品といってるのではなく、哀愁のヨーロッパの演歌に通じるこぶし、とは異なるという意味ね。
ともあれ、冒頭の、かまし、は大成功、音楽表現の究極、といって過言ではない、と言い過ぎたくなるほどのインパクト。
何が始まるか、今夜は。
◆すぐわかったのは、キュッヘルさんは、独奏だけでなく、弾き振りでもあった。
編曲、独奏のみならず、指揮も受け持つ八面六臂。
◆指揮台では後ろ姿はパーヴォに似たおやじがぎくしゃくやっていたが、まるで演奏とずれているのはご愛敬だ。ダミーだから、これはしようがない。
◆ブラ4は、正統派ウイーン仕込みの独奏者の出だしがすべてで、あとは特筆すべきことなし。あとでも言うと思うが、全体に急かされているような単調さ。二楽章再現部も三楽章のトリオがすんでテーマに戻ってくるところの盛り上がるべきところも、一本調子なので、どっちらけだ、おれは。
◆全体に、弦が先走り、管とコンバスが後から追っかけるずれかた。
いうことをきかない飼い犬のリードをひっぱるといやいやついてくるかんじ。
◆ブラ1は、一楽章の最後と終楽章のコーダだけ盛り上がった。
それで思うのは、今夜は、最初から最後までエンディング、コーダをやってるような、ただ煽るだけの演奏だった、とわかると、あおる楽章のさいごだけいいのは腑に落ちる。
◆指揮者にも少しは言及しよう。
何日か前、音楽は感情で語らないほうがいい、といっておいて、その舌の根もかわかないうちになんだが。
おのずから出る指揮者の、なんというか、感性、感情ではなくものの感じ方、美意識みたいなものは、ある、音楽には、とおれは思う。
で、この人は、なんだろう、慈しみを受けたことがない、というのは言い過ぎだが、抜く、とか、ほっとする、とか、そういう、ゆるい、人間の、まあいいじゃん、という感性がぽっかりなくて、24時間ねているときも、緊張しっぱなし、という方ではないか。
良い悪いではない。虚心に。
ともあれ、聴くほうは二曲が限度だ、辟易だ。
◆当初は、そんなことは関係者はわかっていて、だkらキュッヘルさんを呼んで、指揮者はしったことではありません、私のウイーン仕込みでしっとりします、というプロジェクトだと思いながら聞いていたのだが、そのうちに、待てよ。
ほんとに言いたいのは、ここから。
◆キュッヘルさんが頬っぺたを震わせながら弾きまくる独奏、第一ヴァイオリンの音の全体の7割ぐらいはキュッヘルさんが出していたと、ほんとにそう聞こえる、その音圧に圧倒されながら、待てよ、と。
◆さっき、指揮者は煽るだけ、モノトーンの単調さ、というようなことを言ったが、キュッヘルさん、あなたも片棒をかついでいませんか。ひょっとして。
◆という気づきが、聞きながらあった。ブラ4の三楽章あたりから。
◆なんか、先を急ぐような、ブラームスが必ずいれるほっと一息の箇所でもゆるまない、畳みかける弾きぶりが、これでもかこれでもか、と当方には迫ってきた。
◆指揮者と独奏ヴァイオリンの相乗効果で、今夜のささくれだった演奏が実現したのではないか。
◆キュッヘルさんはなだめ役のはずが同調者になっていたのではないか。
◆いや、たぶんいくらなんでも、それは当方の思い過ごしであろう。
◆ウイーン情緒、黄昏のハプスブルク王朝の優雅さ気品、ばらの騎士第三幕みたいな、はかなさ、時の移ろい、もののあはれ、本居宣長が泣いて喜ぶやまとごころに通底する、あの美意識をもって登場したはずだ、キュッヘルさんは。ゲストコンマスの、それが役割というものだ。
◆今夜も、立派に努めました、と、ご本人も、聴衆の大方も、思ったに違いない。
◆さっきいったのは、当方の、いつものつむじ曲がりにすぎない、といいのだが。
◆そんなわけで、終演後、なんだか興奮してしまって、頭の中のおもちゃ箱がひっくり返ってしまって、御覧のとおり、まだ片付かない。
この話、続く、かもしれない。