啓発舎

マジすか? マジすよ

暑い。ビールでも、ということだが、こないだ恵比寿でひでえ目にあったので、用心して飲まない。
台風も来るのか来ないのか。

実は寝っ転がって本を読んでいる、適当に書棚からひっぱりだして。
渋江ちゅうさいと意識と本質。
とりあわせになんの脈絡もない。

渋江は、今回はじめて通読した。

この年でよかった。
もっと若かったら、鴎外しぶいぜ、みたいな減らず口を叩いたかもしれないが、この年だと遠慮なくいう。
枯渇です。
武鑑がどうのとか、しょっちゅう作者本人が登場して講釈垂れているが、息子のネタ本と本人インタヴューの再構成で連載がもつ、という判断で、くどくど書き連ねたに過ぎない。
当初、鴎外も老いて史伝作家になってしまったか、というのが同時代評の典型であった、と。
時がたち、とんでもない、これは鴎外が晩年に到達した高みだ、という説が多数か。少なくとも解説の小堀、と言う人は、おれが教養のころドイツ語を習った人だ、その小堀氏は、言っている。
吉田健一なんかも、晩年の森鴎外をほめる。

一体何を読んでいるか。
あるいは、どう年を重ねてきているか。
馬齢を重ねただけのおれでさえ、手つきがすけて見えるというのに。


外骨格なんですよ。
それと、おれさま根性、作者の。


漱石七転八倒も、あんた人間の滑稽と悲惨をそこまで引き受けることないでしょう、人間はまあいいじゃんでしょうよ、お互いいい年なんだから、と言ってやりたくなるが、この人は、世間話できるかんじがする。


鴎外は外骨格。
地方出身者とほとんど同義。
石見の人森某といって死んだのは、本人が実はそれを一番よくわかっていたからだ。
鴎外の本質は、まさに、石見からでてきた秀才が一生かけて頑丈な甲冑で身を固め、なかみはスカスカでしたとさ、ということが、この一作でわかる。


次、意識と本質。

これはN回目なので、この文章で立ち止まりこんなことを考えました、という過去の自分の考え癖なんかも抱き合わせで蘇る。

井筒さんは、言語学者ですね、それこそ「本質」は。
言語アラヤ識。
ユングと一緒で、苦し紛れでこういうものを措定する、というのはわかる。
桜が存在するのではない、存在が桜するのだ。
本質などない、人間ののうみそが勝手に文節したに過ぎない。
禅とか、そういう技法でそれを体感し、その枷を取る。
主客もへちまもない。
水が水を見るのだ。
ということを了解して、また還ってくるくるのですよ。
と。

井筒さんご本人の悟境がどのあたりだったか知らないが、書いたものはずっとこのあたりで逡巡している。

スーフィーにしても、この碩学の考え癖に無理やりあてはめているところ、ないか。


双方にモンクをつけているようだが、全然違う。
鴎外には、文句もいわない。どんなにあっちがドーダ言っても、たぶん生息域が違うから、関係ありません。疎通できる人にはモンクいう。

井筒さんはその逆で、こっちが勝手に師事しているので、文句なんて恐れ多いです。
自分をぶつけているだけです。
自分の立ち位置の推移がわかる、ということです。
自問自答に近い。

午後になり暑くなってきた。